もちろん両親はいないが姉が住んでいる。
ここ最近は再開発的な変貌を遂げている地区である。
そして少子化が進んでいる地区でもある。
第三小学校と第四小学校の二校は廃校になった。
第一小学校は四ツ谷小学校と名前を変えてリニューアルされ、廃校になった地域の児童をも引き受けることになった。
四ツ谷には第六小学校まであったが、いまは四ツ谷小学校と第六小学校の二校のみである。
どんどん消えていく古い四ツ谷を少しでも町起こしで復活させようと出てきたのが「内藤とうがらし」である。
「山椒は小粒でびりりと辛い」というが、唐辛子には気の利いた言葉はないようだ。
「泣く子に唐辛子」というのは泣いてる子に唐辛子を与えようとするとその苦痛をおもんばかってすぐに泣き止むということのようである。
あまりいい言葉ではない。
もちろんどう考えても営業的に成り立つわけはない。
古き四ツ谷の何かを今に蘇えらせようとする文化事業に近いようである。
「内藤」というのは内藤新宿という地域で字面からいくと新宿地区のように聞こえるが、四ツ谷の外れに内藤町というところがあって、四ツ谷西端から新宿追分にかけての一帯を指す。
でもやはり内藤新宿は新宿に大きく属している。
有志連が四ツ谷の町起こしを行うためネタをいろいろ探したが、何も出てこない。
その程度の町だったということでもある。
そこでやむ得ず、ぎりぎりひっかかる「内藤新宿 八つ房焼き唐辛子」を引きずり込んでそこから新宿を剥がして四ツ谷名物にしてしまおう、ということなのだろう。
町起こしも大変なようである。
『
Wikipediaより
内藤新宿(ないとうしんじゅく)は、江戸時代に設けられた宿場の一つ。
甲州街道に存在した宿場のうち、江戸日本橋から数えて最初の宿場であり、宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道(青梅街道)の起点でもあった。
現在の住所では、東京都新宿区新宿一丁目から二丁目・三丁目の一帯にあたる。
東海道の品川宿・中山道の板橋宿・日光街道(奥州街道)の千住宿と並んで、江戸四宿と呼ばれた[1]。
地名から四谷新宿と呼ばれることもある。

● 内藤新宿の復元模型(新宿歴史博物館蔵)。
画像奥が東で、四谷大木戸に至る。手前の分岐点が新宿追分
』
さて、とうがらしだが「七味唐辛子」ではなく「七色唐辛子」の名称になっている。
1」:武州川越 黒胡麻
2」:紀州有田 みかんの皮(一名陳皮)
3」:江戸内藤新宿 八つ房焼き唐辛子
4」:東海道静岡 朝倉粉山椒
5」:四国高松 唐辛子の粉
6」:大和 ケシの実
7」:野州日光 麻の実






現代の「唐辛子売り口上」を。
『
三社祭で見かけた 七味唐辛子の口上、、、
江戸の風情が味わえる 2018年5月19日
』
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