● ばあ様と私、それにジョー、カイ、サラ 居酒屋「希実」にて
その家族がリターンフリーという80ドルチケットでやってきた。
これはつまり、帰りはタダという航空チケットである。
ご主人はジョー、上の娘が7歳でサラ、下の息子が4歳でカイである。
ジョーとサラに会ったのはケアンズに旅行に行ったときなので2012年の10月になる。
サラはハイハイができるかどうかの頃で、それから6年半ほどたっている。
ジョーはプロレスラーではないかとおもうほどイカツ体形であり近寄りがたい威圧感があった。
でも今はビーガンとなり、体重が20キロ落ちたという。
非常にスマートになり、どこにでもいるオージーとなった。
そのせいで脅迫感がきれいに消えている。
ビーガンとは菜食主義者のことで、肉、魚、卵を食べない、野菜のみという生活をしている人々である。
以前にシェフをやっていたことがあり、ビーガン料理は自分で作るという。
この姉弟は美形である。
娘に言わせると日本なら「花形子役」になるだろうとのこと。
もともとこちらの子は小さい時はお人形さんみたいな美形が多い。
4歳のカイはまだかわいいという範疇だが、サラは美少女である。
サラについては何かどこかで見たことがある、と思ったのだが何処でみたのか、誰だったのか思い出せない。
夕食を近くの居酒屋「希実」でとった。
ビーガンではステーキハウスにはいけない。
和食なら揚げ出し豆腐や野菜のテンプラなどがある。
というより、ただ家の近くでお酒は日本酒にしたいというそれだけだったのだが。
そこで、よーくサラの顔を見ていたら思い出した。
輪郭がダビンチの「モナリザ」に似ているのである。
モナリザは美人ではない。
ダビンチは分析学者であり、図形学者である。
彼が求めたのは情念的な美ではなく、形態としての美である。
数学的な美といってもいい。
論理的な造形といってもいい。
モナリザは女性の顔の形としての集約であると言われている。
超平均的な女性の顔形である、とも言われる。
女性顔のベースであり、どんな形の顔ものると言う。

七五三の写真をスマホで見せてもらった。
日本に行ったときに撮ったもので、和服姿である。
十代も半ばに見えるほどの色っぽさがある。
実際にこの娘がその年頃になるのを見るというのは、私にはちょっと無理かもしれない。
何故だかやたらなついてくる。
理由はというと日本のおじいさんが私によく似ているということらしい。
「ジュンジュン」と言っている。
彼は私より4歳下である。
体形も似ている。
実をいうと私は彼に負い目を少々感じているのである。
というのは私がオーストラリアに移住したことで、娘さんがその影響を受け、ワーキングホリデイをオーストラリアで過ごすうちにジョーにつかまった、という経緯がある。
彼としては
せっかく育てたのにスーと外国人に娘をもっていかれてしまった!
という悔しさがあるのではないかと思うのである。
よって顔を合わせにくい相手ということになった。
これはどうにもならないことだが、心の痛むことでもある。
日本で親戚が集まるときは自然にジョーは言葉があまり分からないということでつんぼ桟敷に置かれることが多い。
これは外国人が日本の家庭に入ればごく普通に発生することであろう。
ジョーとしても覚悟の上だとは思うが。
言葉が通じるのは、カミさんとうちの子どもどもだけである。
ちなみに息子はジョーと同い年である。
6年前にケアンズで娘さんに会ったときは、なにかしかの心細さを感じたことを覚えている。大丈夫だろうか、異国の地でやっていけるのであろうかという不安である。
でも今日、久しぶりに会った印象では、二人の母親として貫禄がつき、この世界でも十分に生きていかれる度胸を持ったという安定感が感じられた。
家族を仕切っているのはこの娘であることが’容易によみとれた。
私にわだかまっていた申し訳ないという意識も消えた。
さらには、その子が二人ともすこぶるの美形なのであるからうれしいことである。
家族を仕切っているのはこの娘であることが’容易によみとれた。
私にわだかまっていた申し訳ないという意識も消えた。
さらには、その子が二人ともすこぶるの美形なのであるからうれしいことである。
この姉弟は片言の日本語が話せる。
昨年、サラの方は日本に行ったときに、日本の学校に体験入学した。
母親が出た小学校である。
今年は2年生の学級に少し長期的に体験入学させるという。
一ケ月も通ったら、同世代と交わることにより日本語もはるかに達者になり、学校のアイドルになりそうである。
ただ、おじいさんおばあさんにすると「来てうれしい、帰ってうれしい」ということだという。
老体には、この子供たちの面倒は実にシンドイことだ、とのことである。
昼間はムービーワールドで、夕方は海岸で遊んで帰っていった。
「平成から令和へ」と動いている。
このファミリーの訪問は「令和」の最初のイベントである。
ここから私にとっての令和が始まる、そんな気分にさせられる。
老いにとってと子供たちというのは、明日があかるくなる。
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