『
東洋経済オンライン 2019/02/17 5:50 宇山 卓栄 : 著作家
https://toyokeizai.net/articles/-/265425
天皇の外国語訳に違和感があるこれだけの理由
本当はエンペラーともカイザーとも違う
世界中で唯一の存在である、日本の天皇。
天皇は「天皇」であり、本来、外国語に訳すのは無理があるかもしれませんが、世界の人々が「tennou」と呼ぶわけではありません。
「天皇」は世界各国で、どのように訳され、どのように呼ばれているのでしょうか。
また、その訳語にどのような意味や歴史的背景があるのでしょうか。
■「天皇」の英語、ドイツ語、ロシア語訳は?
「天皇」は英語で「エンペラー(emperor)」、
ドイツ語で「カイザー(Kaiser)」と訳されます。
「エンペラー」も「カイザー」も「皇帝」という意味を持ちますが、両者はその語義が異なります。
「天皇」は「カイザー」よりも「エンペラー」に近いと言えます。
ドイツ語の「カイザー」は、古代ローマ時代のカエサル(英語でシーザー)のドイツ語読みです。
ローマ帝国の初代皇帝はカエサルの養子のアウグストゥスですが、帝国の基礎を築いたのはカエサルなので、カエサルを追慕するとともに、「カエサルの後継者」という意味で、個人名が最高権力者を意味する称号となり、受け継がれるようになりました。
したがって、「カイザー」は「カイザー」なのであり、本来、「皇帝」という意味はありません。
一方、英語の「エンペラー」はローマ軍の最高司令官を意味する「インペラトゥール(ラテン語: imperator)」を語源にしています。
「インペラトゥール」は「インペリウム(命令権)を持つ者」という意味です。
したがって、「エンペラー」はその語源に照らせば、「最高指導者」や「君臨者」という意味になります。
ドイツ語の「カイザー」が後継者としての称号であるのに対し、英語の「エンペラー」は役割者としての称号です。
ロシア語には、「皇帝」を表す語は2つあります。
「インペラートル(император)」と「ツァーリ(царь)」です。
「インペラートル」はラテン語の「インペラトゥール」から派生した語で、英語の「エンペラー」と語義が同じです。
「ツァーリ」はツァー(Czar)、つまりシーザー(=カエサル)のことで、ドイツ語の「カイザー」と語義が同じです。
ロシア語では、「天皇」の訳に「ツァーリ」は当てられず、「インペラートル」が当てられます。
「天皇」にはカエサルの後継者称号よりも、君臨者としての役割者称号を当てることのほうが適切であるからです。
ドイツ語とロシア語の「皇帝」が「カエサル」という意味を持つのは、理由があります。
★:ヨーロッパで、皇帝家はドイツ語圏とロシア語圏にのみありました。
ドイツ語圏に、オーストリアのハプスブルク家、ドイツのホーエンツォレルン家の2つの皇帝家があり、
ロシア語圏に、ロシアのロマノフ家があります。
この3つの家系のみがヨーロッパでは皇帝家です。
イギリスのエリザベス1世を輩出したテューダー家もフランスのルイ14世を輩出したブルボン家も、強大であったとはいえ、皇帝家ではありません。
なぜならば、彼らはカエサルの後継者ではなかったからです。
19世紀に、ナポレオンが「皇帝」を名乗りますが、正統な皇帝とは言えません。
ブルガリア王シメオン1世(在位893年~927年)なども東ローマ皇帝の後継者を自認し、一方的に「皇帝」を名乗りましたが、やはり正統性はありません。
ヨーロッパ人は、自らの歴史がローマ帝国からはじまると捉えています。
ローマ帝国は約400年間続き、西暦395年、東西に分裂します。
ローマ帝国の分裂以降、皇帝位は東西の2つに分かれ、西ローマ皇帝と東ローマ皇帝が並び立つことになります。
西ローマ帝国の継承者が神聖ローマ帝国の歴代皇帝であり、この流れの中に、前述のオーストリアのハプスブルク家とドイツのホーエンツォレルン家があります。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の継承者がロシアのロマノフ家です。
■血統の系譜ではなく、政治的系譜
西側(旧西ローマ帝国領域)では19世紀、新勢力ホーエンツォレルン家が台頭し、神聖ローマ皇帝位を歴代世襲したハプスブルク家に対抗します。
北ドイツのプロイセンから発祥し、ドイツ全土を支配したホーエンツォレルン家は神聖ローマ帝国の流れをくむ分派でした。
ホーエンツォレルン家は衰退するハプスブルク家に代わり、自らが皇帝位を引き継ぐことを主張し、1871年、ドイツ帝国を樹立します。
このとき、神聖ローマ帝国の皇帝継承者として、旧勢力のハプスブルク家と新勢力のホーエンツォレルン家が並び立つことになります。
ドイツにおいて、962年発足の神聖ローマ帝国は第一帝国、1871年発足のホーエンツォレルン家のドイツ帝国が第二帝国、ヒトラーのナチス・ドイツが第三帝国となります。
ヨーロッパの皇帝家であるハプスブルク家とホーエンツォレルン家、そしてロマノフ家はカエサルの後継者として「皇帝」を名乗っていました。
ヨーロッパの皇帝家はその祖先をたどっていくと、ローマ帝国のカエサルに行き着きます。
ただし、この系譜は血統・血脈を受け継いでいるものではなく、飽くまでも政治的な系譜にすぎません。
ここが、血統の継承を前提とする日本の皇室と違うところです。
ヨーロッパでは、ローマ帝国時代から優秀な者を養子に迎え、帝位を引き継がせていました。
また、実力者が武力闘争やクーデターによって皇帝になることもありました。
近世・近代以降、先の3つの皇帝家が帝位を独占的に世襲しますが、それまでは選挙や実力争いで帝位が継承されていたのです。
■「天皇」は「tennou」と言い表すほかない
前述のように、「天皇」の訳には、英語の「エンペラー」に代表される役割者称号が当てられる場合と、ドイツ語の「カイザー」に代表される後継者称号が当てられる場合があります。
「エンペラー」系統の例として、スペイン語の「エンペラドール(emperador)」、フランス語の「アンペラール(empereur)」、イタリア語の「インペラトーレ(imperatore)」などがあります。
アラビア語の「イムベラートール」も「エンペラー」の系統に属します。
アラビア語圏の皇帝に相当する最高権力者はスルタンでした。
「スルタン」はアラビア語で「権威」を意味します。
オスマン帝国などの中東では、ヨーロッパの皇帝の訳語として、「スルタン」を当てることはなく、ヨーロッパ由来の「イムベラートール」を当てました。
それが現在、「天皇」にも当てられるわけです。
彼らにとって、スルタンは唯一者であり、たとえ他国の皇帝がスルタンと同格であったとしても、「スルタン」と呼ばれることはなかったのです。
一方、「カイザー」系統の例として、オランダ語の「カイザラ(keizer)」、スウェーデン語の「シェイサレ(kejsare)」をはじめとする北欧ノルウェー語やデンマーク語があります。
「カイザー」系統のこれらの言語を使う国々、つまり、ドイツ語系の国々では、天皇は「カエサル」と呼ばれているのです。
われわれ日本人にとってはやはり違和感があります。「君臨者」を意味する「エンペラー」の訳語が当てられるのは理解できても、「カエサル」と呼ばれるのはどうかなと思ってしまいます。
「天皇」の称号はその由来や歴史的背景からしても、いわゆる「皇帝」とも異なります。
「天皇」に「エンペラー」や「カイザー」の訳語が当てられることが近代以降、一般化しており、「世界に唯一残るエンペラー」と評されることは、われわれ日本人として誇らしいことですが、「天皇」は本来、「tennou」としか言い表せません。
かつて、オスマン帝国の皇帝であったスルタンをドイツ語圏で「カイザー」と呼ぶことはなく、そのまま「スルタン(sultan)」と呼んでいました。
これと同じく、天皇を「tennou」と呼んだとしてもおかしいことではありません。
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『
東洋経済オンライン 2019/03/03 5:10 宇山 卓栄 : 著作家
https://toyokeizai.net/articles/-/265649
欧米人が天皇を"キング"とは呼ばない深い理由
世界で残るたった一人の「エンペラー」の謎
現在、世界で「エンペラー(emperor・皇帝)」と呼ばれる人物はたった一人だけいます。
それは日本の天皇です。
世界に王はいるものの、皇帝は天皇を除いて、残っていません。
国際社会において、天皇のみが「キング(king・王)」よりも格上とされる「エンペラー」と見なされます。
「天皇」は中国の「皇帝」と対等の称号であるので、「キング」ではなく、「エンペラー」であるのは当然だと思われるかもしれません。
これは日本人にとって、当然かもしれませんが、欧米人もこうしたことを理解して、「エンペラー」と呼んでいたのでしょうか。
一般的な誤解として、天皇がかつての大日本帝国 (the Japanese Empire)の君主であったことから、「エンペラー」と呼ばれたと思われていますが、そうではありません。
1889(明治22)年の大日本帝国憲法発布時よりも、ずっと前に、天皇は欧米人によって、「エンペラー」と呼ばれていました。
■17世紀、すでに天皇は「エンペラー」だった
江戸時代に来日した有名なシーボルトら3人の博物学者は長崎の出島にちなんで「出島の三学者」と呼ばれます。
「出島の三学者」の1人で、シーボルトよりも約130年前に来日したドイツ人医師のエンゲルベルト・ケンペルという人物がいます。
ケンペルは1690年から2年間、日本に滞在して、帰国後、『日本誌』を著します。
この『日本誌』の中で、ケンペルは「日本には2人の皇帝がおり、その2人とは聖職的皇帝の天皇と世俗的皇帝の将軍である」と書いています。
天皇とともに、将軍も「皇帝」とされています。
1693年ごろに書かれたケンペルの『日本誌』が、天皇を「皇帝」とする最初の欧米文献史料と考えられています。
ケンペルは日本の事情に精通しており、「天皇」の称号が中国皇帝に匹敵するものであるということ、さらにその歴史的な経緯をよく理解したうえで、天皇を「皇帝」としました。
1716年にケンペルは死去します。
その後、『日本誌』の遺稿はイギリスの収集家に売られ、1727年、その価値が認められて、『The History of Japan』というタイトルで英語訳で出版されます。
この本は話題となり、フランス語、オランダ語にも翻訳出版され、ヨーロッパ中で大ヒット・ベストセラーとなりました。
18世紀後半、ドゥニ・ディドロが『百科全書』を編纂(へんさん)した際、日本関連の情報のほとんどを『日本誌』に典拠したことが知られています。
ケンペルの『日本誌』が普及したことで、日本の天皇および将軍が「皇帝」と呼ばれることがヨーロッパで完全に定着しました。
こうした背景から、1853年、ペリーが黒船を率いてやって来たとき、天皇と将軍をともに「emperor(皇帝)」と呼んだのです。
ペリーのみならず、日本にやって来た欧米各国の学者や外交官たちも天皇と将軍を「皇帝」と呼び、日本には「2人の皇帝が存在する」などと記録しています。
また、ケンペルは『日本誌』の中で、天皇は紀元前660年に始まり、当時の1693年まで続いていることに触れ、「同じ一族の114人の長男の直系子孫たちが皇帝位を継承しており、この一族は日本国の創建者である天照大神の一族とされ、人々に深く敬われている」と説明しています。
ケンペルは、皇統の「万世一系」が日本で重んじられていることに言及したのです。
■宣教師たちは天皇をどのように呼んだのか?
では、戦国時代の16世紀にやって来たイエズス会の宣教師たちは天皇をどのように呼んでいたのでしょうか。
フランシスコ・ザビエルとともに日本にやって来て、18年間、日本で宣教したコスメ・デ・トーレスは「日本には、聖権的な絶対指導者が存在する」と記録し、その存在を三人称的な「彼」と表記しています。トーレスが「彼」としたのは天皇のことであると考えられています。
織田信長と親交のあったルイス・フロイスは天皇を「Dairi」(ポルトガル語原文)と表現しています。
「Dairi」とは 「内裏(だいり)」のことで天皇を指し示します。
「天皇」という呼び名は、明治時代以降、一般化しました。
「天皇」は中国などの対外向けに制定された漢語表現で、また、法的な称号でもあり、日本国内では、普段から使われていた呼び名ではなかったのです。
明治政府が天皇を中心とする新国家体制を整備する段階で対外向けの「天皇」を一般化させていきます。
それ以前、天皇は御所を表す「内裏(だいり)」と呼ばれたり、御所の門を表す「御門(みかど)」と呼ばれていました。
「みかど」に「帝」の漢字を当てるのもやはり、中国を意識した対外向けの表現であったと考えられます。
こうした状況で、ルイス・フロイスは天皇を「Dairi」と表記しました。
いずれにしても、16世紀の段階で、天皇を「エンペラー」とする表記はありませんでした。
■天皇は本来、「キング」に近い存在
皇帝は一般的に、広大な領域を支配する君主で、複数の地域や国、民族の王を配下に持ちます。
つまり、王の中の王が皇帝なのです。
その意味では、天皇は明治時代以前、日本一国の君主でしかないので、皇帝よりも王に近いと思われます。
「王」を意味する英語の「king(キング)」やドイツ語の「König(ケーニヒ)」は、古ゲルマン語の「kuni(クーニ)」が変化したものです。
「kuni」は「血族・血縁」を意味します。
英語やドイツ語などの「王」には「血族・血縁」という意味が表裏一体のものとして内在されています。
王は「血族長」として、1つの部族をまとめ、さらに1つの民族をまとめ、一定の領土を支配領域とすることで、最終的に一国の君主となります。
一方、皇帝は血縁に関係なく、実力者がなるという前例が数多くあります。
ヨーロッパでは、ローマ帝国時代から優秀な者を養子に迎え、帝位を引き継がせ、実力者が武力闘争やクーデターによって皇帝となることもありました。
しかし、王は違います。
王になるためには必ず、血統の正統性が要求されます。
例えば、ナポレオンなどは皇帝になれても、王になることはできませんでした。
皇帝は王よりも格上の存在です。ナポレオンが格上の皇帝になることができて、格下の王になれなかったというのは一見、矛盾した話のように聞こえますが、こうした背景があるのです。
ただし、神聖ローマ皇帝位をハプスブルク家が世襲しはじめる15世紀には、皇帝位にも、血統の継承性が重んじられるようになり、各国の王位の継承性とバランスを取ることが慣習的に定着します。
そのため、ナポレオンが19世紀初頭に突如、皇帝になったことはヨーロッパの保守派の間では到底、認められるものでないばかりか、ほとんど嘲笑の的でした。
「万世一系」の皇統を持つ(諸説あり)天皇は、血統による正統な君主という意味でも、「キング」の訳を当てたほうが適切かもしれません。
しかし、天皇という「キング」とは異なる言葉の意味や、天皇が中国皇帝に対抗したという歴史的経緯もあり、前述のケンペルをはじめとする欧米人たちは天皇を「エンペラー」と見なし、そのような称号で扱うことを一般化し、国際儀礼としたのです。
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東洋経済オンライン 2018/12/22 7:00 伊藤 賀一 : 「スタディサプリ」日本史講師
https://toyokeizai.net/articles/-/255911
なぜ日本の天皇は125代も続いてきたのか
織田信長もGHQも倒そうとしなかった
来る2019年4月、天皇の生前退位が行われ、平成の時代が幕を下ろします。
高齢と健康上の理由で天皇としての公務を果たすことが難しくなったためですが、天皇の生前退位は119代光格天皇以来、実に202年ぶり。
私たちは歴史の転換点に立っているのです。
しかし、どれだけの人が「天皇制」についてしっかりと理解しているでしょうか。
それを知るには近現代の天皇を知るだけでなく、過去の歴史をひも解く必要があります。
『ニュースの“なぜ?”は日本史に学べ 日本人が知らない76の疑問』を上梓したスタディサプリの人気講師が、歴史をひも解きながら、「天皇」の存在に迫ります。
みなさんは日本が、「世界唯一の単一王朝国家」だと呼ばれていることをご存じでしょうか。
これは、今上帝(在位中の天皇をこう呼ぶ)まで125代、2700年にわたって万世一系の天皇が存在しているということを指しています。
たしかにヤマト政権(のち律令国家の「朝廷」)は、一度も王朝交代は行われていません。
世界にこのような体制は存在せず、ローマ帝国でさえ1000年強の歴史です。
どれだけ珍しいかがおわかりいただけるのではないでしょうか。
大王(のち天皇)が125代連続で確実につながっているかどうかは不明です。
少なくとも初代の神武天皇から25代目の武烈天皇までは、実在していたかどうかはっきりとはわかりません。
ある程度正確に把握できているのは、26代目の継体天皇からです。
最初の頃は、『古事記』や『日本書紀』の神話世界ですから。
それでも、100代ほどにわたり万系一世で続いているというのは、驚異的なことです。
■日本ではなぜ単一王朝が続いたか
日本が他国に乗っ取られたことがないことも、背景にあります。
太平洋戦争後、GHQ(連合国軍総司令部)すなわちアメリカ軍に一時的に占領されたとはいえ、外圧によって天皇の存在自体が途絶えることはありませんでした。
では、内圧はどうでしょう。
なぜこれだけの間、単一王朝の継続が可能だったのでしょうか。
実は、歴代天皇の処世術にその答えがあります。
時代をさかのぼってひも解いていきたいと思います。
天皇号の始まりは、飛鳥時代(=古墳時代終末期)です。
672年の壬申の乱に勝利した大海人皇子が、従来の「大王」にかわり天武「天皇」と称し即位しました。
大王は、ヤマト政権内の「王」である各豪族のリーダー的存在だったのに対し、天皇はその次元を超えた“別格の存在”です。
当時の天武天皇や、妻の持統天皇は強大な権力者で、皇子(親王)たちが補佐をし、自ら政治を執り行っていました(=皇親政治)。
奈良時代になると、天皇の下で「藤原不比等→長屋王→藤原四子→橘諸兄→藤原仲麻呂→道鏡→藤原百川」と、政権が目まぐるしく入れ替わり、最終的には藤原氏が最有力となります。
しかし、あくまでもトップは天皇で、地位や権威は安泰でした。
平安時代に少し様子が変わります。
858年、清和天皇が9歳で即位すると、母方の祖父である藤原良房が、幼少の天皇の政務を代行する「摂政」に就任しました。
そして良房の養子基経は、884年に光孝天皇が55歳で就任すると、成人後の天皇を補佐する「関白」に初めて就任。
これが「摂関政治」の始まりです。
天皇が処世術として長けていたのは、摂関政治が始まると、母方の親戚(=外戚)である藤原氏に、政務だけを任せた点です。
形式的に権威は保った状態のままですから、悪い話ではありません。
一方、藤原氏も天皇を排除して名実ともにトップに立とうとは考えませんでした。
圧倒的な権威(金メダル)を持つ天皇の外戚として、政務を代行・補佐しているからこそ摂政や関白に価値があり、転じて自らの権威付け(銀メダル)もできます。
天皇の価値をあえて下げ、貴族の分際で暫定トップに立つことには、メリットがなかったのです。
このようなスタンスで、11世紀前半の平安時代後期には、藤原道長・頼通親子により摂関政治は全盛期を迎えます。
このように、変化する政治状況を巧みに利用しながら、古代の天皇は自らの地位や権威をキープし続けたのです。
■「摂関政治」「院政」と天皇
さて、平安時代末期、中世に突入すると、もと天皇により「院政」が始まります。
外戚(=母方の父や伯父・叔父)として藤原氏の摂政・関白もいるのですが、父や祖父が皇位を退いたあとも新天皇の後ろ盾となり、政務をみることが常態化しました。
国民的アニメ『サザエさん』を例に、摂関政治と院政を説明してみましょう。
フグ田家のタラちゃんが天皇の場合、同居する磯野家の波平やカツオ(=母方の祖父や叔父)が摂政や関白を務めるのが摂関政治。磯野家が外戚の藤原氏にあたるわけです。
一方の院政は、フグ田家すなわち皇室内の話です。
もと天皇のマスオさんが新天皇のタラちゃんを擁し上皇として院政を敷くというイメージです。
院政は、新天皇に圧倒的な権威(金メダル)を引き継ぐ際、もと天皇がメダルを首にかけてあげ、そのまま抱っこしている感じ。
藤原氏から反発を買うことはありませんでした。
なぜなら、摂政・関白という地位(銀メダル)を取り上げなかったからです。
貴族ナンバーワンという立場は保障されています。
1086年、白河天皇が8歳の子(堀河天皇)に皇位を譲り、上皇(太上天皇のち出家して法皇)となったのが院政の初めです。
この後、鳥羽上皇や後白河上皇、後鳥羽上皇などが院政を続けます。
中世に院政が行われている間(後醍醐天皇の親政など例外はありますが)、鎌倉幕府や室町幕府といった武家政権が誕生します。
幕府は朝廷より軍事的には強大なパワーをもち、実質的に全国を支配していたわけですが、天皇や上皇にとって代わろう、排除しようとはしませんでした。
源頼朝にしても足利尊氏にしても、朝廷から賜った「征夷大将軍」という地位(銅メダル)で満足していました。
なぜなら、権威(金メダルや銀メダル)を持つ朝廷から将軍に任命されることに価値があったからです。
新興勢力である武家は自らを裏付ける伝統的な権威がなく、軍事力だけで政権は長続きしないことを知っていたのです。
このように朝廷の天皇(上皇)は、軍事力や経済力で上回る幕府の将軍に対し、ある程度の権威を承認するという方法で、自らの地位や権威を維持するようになったのです。
クレバーな処世術といえるでしょう。
戦乱期を経た近世の江戸時代も、基本的なスタンスは同じです。
江戸幕府は圧倒的に強い存在でしたが、天皇は、政権を将軍に委任する伝統的権威の象徴として生き残りました。
幕末の大政奉還も、「幕府の将軍が朝廷の天皇から預かった政権をお返しする」という構図ですね。
朝廷の天皇は、その時点で最も強い勢力を持つ人物を積極的に承認することで権威を保ち続け、生き延びてきました。
これは相対する勢力と直接戦って、やがて滅びていく運命をたどったヨーロッパの王朝とは、大きく異なる点なのです。
基本的に天皇が率いる朝廷は処世術に長けていて、幕府と持ちつ持たれつの関係をキープしながら単一王朝を維持してきたといえるでしょう。
■天皇とは日本人にとってどんな存在か?
巨大な経済力・軍事力をもつ江戸幕府は、その気になれば朝廷を滅ぼすこともできたはずです。
なぜ、そうしなかったのか。
すでにおわかりでしょう。
ここまで述べてきたように、朝廷の天皇と有力な権力者は、持ちつ持たれつの関係を維持してきました。
朝廷は時の権力を承認することで利用し、一方の権力者は天皇の権威を借りることで統一を進めました。
権力者は天皇に権威づけてもらわなければ国をまとめ、政権を維持することができなかったのです。
それゆえ、朝廷の天皇勢力が当時の権力者に本気で逆らった「承久の乱」や「建武の新政」の際も、朝廷の天皇そのものを滅ぼすという発想はありませんでした。
これは細かく歴史を振り返ってみても、終始一貫した日本独自の国民性といえます。
たとえば、飛鳥時代の蘇我馬子。
当時は相当な権力者でしたが、本人が大王になろうとまではしませんでした。
平安時代の藤原道長も平清盛もそう。
2人とも、自分の娘を天皇に嫁がせて外戚となり、権威を利用しただけです。
室町幕府の3代将軍・足利義満も、天下統一直前だった織田信長も、天皇になろうとか排斥しようと思ったことはありません。
天下を統一した豊臣秀吉も、朝廷を滅ぼすだけの力を持っていましたが、あえて関白に就任しています。
天皇の補佐をすることで、農村の足軽出身という出自の低さをリカバーしようとしました。
日本史上最強である徳川家康の一族でさえも、朝廷の天皇から代々征夷大将軍・内大臣に任命される道を選び、朝廷を潰そうとはしませんでした。
明治時代以降も、どんなにいいポジションにいても、誰一人として天皇に成り代わろうと考えた人物はいないのです。
そういう意味では、太平洋戦争後、GHQのマッカーサーが天皇制を維持した判断は正しかったといえます。
天皇や国のために神風特攻隊や人間魚雷として命を投げ出すような国民ですから、天皇制を廃止してしまったら何をするかわからないし、日本はまとまらないと考えた背景には、これだけの歴史があったのです。
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東洋経済オンライン 2018/12/22 7:00 伊藤 賀一 : 「スタディサプリ」日本史講師
https://toyokeizai.net/articles/-/255911
なぜ日本の天皇は125代も続いてきたのか
織田信長もGHQも倒そうとしなかった
来る2019年4月、天皇の生前退位が行われ、平成の時代が幕を下ろします。
高齢と健康上の理由で天皇としての公務を果たすことが難しくなったためですが、天皇の生前退位は119代光格天皇以来、実に202年ぶり。
私たちは歴史の転換点に立っているのです。
しかし、どれだけの人が「天皇制」についてしっかりと理解しているでしょうか。
それを知るには近現代の天皇を知るだけでなく、過去の歴史をひも解く必要があります。
『ニュースの“なぜ?”は日本史に学べ 日本人が知らない76の疑問』を上梓したスタディサプリの人気講師が、歴史をひも解きながら、「天皇」の存在に迫ります。
みなさんは日本が、「世界唯一の単一王朝国家」だと呼ばれていることをご存じでしょうか。
これは、今上帝(在位中の天皇をこう呼ぶ)まで125代、2700年にわたって万世一系の天皇が存在しているということを指しています。
たしかにヤマト政権(のち律令国家の「朝廷」)は、一度も王朝交代は行われていません。
世界にこのような体制は存在せず、ローマ帝国でさえ1000年強の歴史です。
どれだけ珍しいかがおわかりいただけるのではないでしょうか。
大王(のち天皇)が125代連続で確実につながっているかどうかは不明です。
少なくとも初代の神武天皇から25代目の武烈天皇までは、実在していたかどうかはっきりとはわかりません。
ある程度正確に把握できているのは、26代目の継体天皇からです。
最初の頃は、『古事記』や『日本書紀』の神話世界ですから。
それでも、100代ほどにわたり万系一世で続いているというのは、驚異的なことです。
■日本ではなぜ単一王朝が続いたか
日本が他国に乗っ取られたことがないことも、背景にあります。
太平洋戦争後、GHQ(連合国軍総司令部)すなわちアメリカ軍に一時的に占領されたとはいえ、外圧によって天皇の存在自体が途絶えることはありませんでした。
では、内圧はどうでしょう。
なぜこれだけの間、単一王朝の継続が可能だったのでしょうか。
実は、歴代天皇の処世術にその答えがあります。
時代をさかのぼってひも解いていきたいと思います。
天皇号の始まりは、飛鳥時代(=古墳時代終末期)です。
672年の壬申の乱に勝利した大海人皇子が、従来の「大王」にかわり天武「天皇」と称し即位しました。
大王は、ヤマト政権内の「王」である各豪族のリーダー的存在だったのに対し、天皇はその次元を超えた“別格の存在”です。
当時の天武天皇や、妻の持統天皇は強大な権力者で、皇子(親王)たちが補佐をし、自ら政治を執り行っていました(=皇親政治)。
奈良時代になると、天皇の下で「藤原不比等→長屋王→藤原四子→橘諸兄→藤原仲麻呂→道鏡→藤原百川」と、政権が目まぐるしく入れ替わり、最終的には藤原氏が最有力となります。
しかし、あくまでもトップは天皇で、地位や権威は安泰でした。
平安時代に少し様子が変わります。
858年、清和天皇が9歳で即位すると、母方の祖父である藤原良房が、幼少の天皇の政務を代行する「摂政」に就任しました。
そして良房の養子基経は、884年に光孝天皇が55歳で就任すると、成人後の天皇を補佐する「関白」に初めて就任。
これが「摂関政治」の始まりです。
天皇が処世術として長けていたのは、摂関政治が始まると、母方の親戚(=外戚)である藤原氏に、政務だけを任せた点です。
形式的に権威は保った状態のままですから、悪い話ではありません。
一方、藤原氏も天皇を排除して名実ともにトップに立とうとは考えませんでした。
圧倒的な権威(金メダル)を持つ天皇の外戚として、政務を代行・補佐しているからこそ摂政や関白に価値があり、転じて自らの権威付け(銀メダル)もできます。
天皇の価値をあえて下げ、貴族の分際で暫定トップに立つことには、メリットがなかったのです。
このようなスタンスで、11世紀前半の平安時代後期には、藤原道長・頼通親子により摂関政治は全盛期を迎えます。
このように、変化する政治状況を巧みに利用しながら、古代の天皇は自らの地位や権威をキープし続けたのです。
■「摂関政治」「院政」と天皇
さて、平安時代末期、中世に突入すると、もと天皇により「院政」が始まります。
外戚(=母方の父や伯父・叔父)として藤原氏の摂政・関白もいるのですが、父や祖父が皇位を退いたあとも新天皇の後ろ盾となり、政務をみることが常態化しました。
国民的アニメ『サザエさん』を例に、摂関政治と院政を説明してみましょう。
フグ田家のタラちゃんが天皇の場合、同居する磯野家の波平やカツオ(=母方の祖父や叔父)が摂政や関白を務めるのが摂関政治。磯野家が外戚の藤原氏にあたるわけです。
一方の院政は、フグ田家すなわち皇室内の話です。
もと天皇のマスオさんが新天皇のタラちゃんを擁し上皇として院政を敷くというイメージです。
院政は、新天皇に圧倒的な権威(金メダル)を引き継ぐ際、もと天皇がメダルを首にかけてあげ、そのまま抱っこしている感じ。
藤原氏から反発を買うことはありませんでした。
なぜなら、摂政・関白という地位(銀メダル)を取り上げなかったからです。
貴族ナンバーワンという立場は保障されています。
1086年、白河天皇が8歳の子(堀河天皇)に皇位を譲り、上皇(太上天皇のち出家して法皇)となったのが院政の初めです。
この後、鳥羽上皇や後白河上皇、後鳥羽上皇などが院政を続けます。
中世に院政が行われている間(後醍醐天皇の親政など例外はありますが)、鎌倉幕府や室町幕府といった武家政権が誕生します。
幕府は朝廷より軍事的には強大なパワーをもち、実質的に全国を支配していたわけですが、天皇や上皇にとって代わろう、排除しようとはしませんでした。
源頼朝にしても足利尊氏にしても、朝廷から賜った「征夷大将軍」という地位(銅メダル)で満足していました。
なぜなら、権威(金メダルや銀メダル)を持つ朝廷から将軍に任命されることに価値があったからです。
新興勢力である武家は自らを裏付ける伝統的な権威がなく、軍事力だけで政権は長続きしないことを知っていたのです。
このように朝廷の天皇(上皇)は、軍事力や経済力で上回る幕府の将軍に対し、ある程度の権威を承認するという方法で、自らの地位や権威を維持するようになったのです。
クレバーな処世術といえるでしょう。
戦乱期を経た近世の江戸時代も、基本的なスタンスは同じです。
江戸幕府は圧倒的に強い存在でしたが、天皇は、政権を将軍に委任する伝統的権威の象徴として生き残りました。
幕末の大政奉還も、「幕府の将軍が朝廷の天皇から預かった政権をお返しする」という構図ですね。
朝廷の天皇は、その時点で最も強い勢力を持つ人物を積極的に承認することで権威を保ち続け、生き延びてきました。
これは相対する勢力と直接戦って、やがて滅びていく運命をたどったヨーロッパの王朝とは、大きく異なる点なのです。
基本的に天皇が率いる朝廷は処世術に長けていて、幕府と持ちつ持たれつの関係をキープしながら単一王朝を維持してきたといえるでしょう。
■天皇とは日本人にとってどんな存在か?
巨大な経済力・軍事力をもつ江戸幕府は、その気になれば朝廷を滅ぼすこともできたはずです。
なぜ、そうしなかったのか。
すでにおわかりでしょう。
ここまで述べてきたように、朝廷の天皇と有力な権力者は、持ちつ持たれつの関係を維持してきました。
朝廷は時の権力を承認することで利用し、一方の権力者は天皇の権威を借りることで統一を進めました。
権力者は天皇に権威づけてもらわなければ国をまとめ、政権を維持することができなかったのです。
それゆえ、朝廷の天皇勢力が当時の権力者に本気で逆らった「承久の乱」や「建武の新政」の際も、朝廷の天皇そのものを滅ぼすという発想はありませんでした。
これは細かく歴史を振り返ってみても、終始一貫した日本独自の国民性といえます。
たとえば、飛鳥時代の蘇我馬子。
当時は相当な権力者でしたが、本人が大王になろうとまではしませんでした。
平安時代の藤原道長も平清盛もそう。
2人とも、自分の娘を天皇に嫁がせて外戚となり、権威を利用しただけです。
室町幕府の3代将軍・足利義満も、天下統一直前だった織田信長も、天皇になろうとか排斥しようと思ったことはありません。
天下を統一した豊臣秀吉も、朝廷を滅ぼすだけの力を持っていましたが、あえて関白に就任しています。
天皇の補佐をすることで、農村の足軽出身という出自の低さをリカバーしようとしました。
日本史上最強である徳川家康の一族でさえも、朝廷の天皇から代々征夷大将軍・内大臣に任命される道を選び、朝廷を潰そうとはしませんでした。
明治時代以降も、どんなにいいポジションにいても、誰一人として天皇に成り代わろうと考えた人物はいないのです。
そういう意味では、太平洋戦争後、GHQのマッカーサーが天皇制を維持した判断は正しかったといえます。
天皇や国のために神風特攻隊や人間魚雷として命を投げ出すような国民ですから、天皇制を廃止してしまったら何をするかわからないし、日本はまとまらないと考えた背景には、これだけの歴史があったのです。
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2019-02-17 13:12 サーチナニュース
http://news.searchina.net/id/1675710?page=1
「亡国の危機」のたびに自らを成長させてきた日本、
何度も勃興できた理由=中国
日本は中国に比べると天然資源に乏しく、人口や国土という点でも大きく劣っている。
それゆえ中国人からすれば、日本が先進国となれた理由が気になって仕方がないようだ。
中国メディアの今日頭条はこのほど、日本の歴史を見てみると「亡国の危機などの重大な局面になると、日本はこれまで改革を通じて危機を乗り切ってきたことがわかる」と伝えつつ、日本は危機を乗り切るだけでなく、危機のたびにより強く成長してきたと主張、日本はなぜ何度も勃興することができたのかと問いかける記事を掲載した。
記事は、日本は「国土の小さい島国」だと強調する一方で、他国による侵略など「亡国の危機」に直面するたびに自らを成長させてきたと指摘。たとえば第2次世界大戦で敗れても、日本は短期間で国を再建し、わずか数十年で世界第2位の経済大国へと成長したと論じた。
続けて、日本にとって強大な国になるためのもっとも良い方法は「他国に学ぶこと」だったとし、国の体制などを改革するうえでは「天皇制」という制度が大きな役割を果たしたと主張。
天皇を中心とする国家体制は、天皇の号令さえあれば「全国民が一致して改革に取り組む」ことができる体制であったとし、こうした体制が高い効率のもとでの改革を現実のものとしたと論じた。
さらに、日本の歴史をよく見てみると「中国のような輝かしい歴史はない」と主張する一方で、日本人は模倣や学習の能力が非常に高いことが分かると主張。
だからこそ、明治維新のように「極めて短期間で国家体制を変更し、他国に学びながら改革を行う」ことができるのだとし、こうした点は「中国が学ぶべきものではないか」と主張している。
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