2019年2月1日金曜日

国籍とは:国籍という不条理? ニューズウイーク記事

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 息子は日本とオーストラリアの二重国籍である。
 卒業はすべてオーストラリアの学校である。
 日本の学校は幼稚園と小学校2年までである。
 日本は二重国籍を認めていないが、これには強制力がない。
 たとえばペルーのフジモリ元大統領は日本国籍をもっていた。
 みずからの意思で国籍を放棄しなければ国籍は永久に残る。
 テニスのチャンピオンである大阪なおみは日本とアメリカの二重国籍である。
 22歳でどちらかを選択しないといけないが、彼女はどちらの国籍を選択するのか。
 もし選ばなかったらどうなるのか。
 二重国籍のままならどうなるのか。


ニューズウイーク 2019年1月29日(火)17時50分 田所昌幸(慶應義塾大学法学部教授)
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/01/post-11596.php

国籍という不条理(1):国籍売ります



<国籍を「売って」いる国もあり、地中海の小国マルタでは約1億5000万円で買えるという。
昨今「二重国籍」を認めるべきであるという議論が高まっているが、二重国籍容認論は安全保障環境の変化と無縁ではないことを田所昌幸・慶應義塾大学教授は指摘する。
論壇誌「アステイオン」89号は「国籍選択の逆説」特集。同特集の論考「国籍という不条理」を3回に分けて全文転載する>

■国籍売ります

日本のパスポートは世界最強。
カナダのとある民間企業であるヘンリー・アンド・パートナーズ(Henley & Partners)社の最新の格付けによると、日本人はシンガポール人と並んで世界の一八九カ国にビザなしで渡航でき、二位のドイツ(一八八カ国)、三位のデンマーク、イタリア、スペイン、フランス、フィンランド、スウェーデン、韓国など(一八七カ国)をわずかに上回って、第一位とされた(1)。
私自身も、海外の出入国検査で、日本国籍であるという理由だけで恩恵を蒙っているのであろう。
パスポートの表紙を見せただけで「もう行っていい」という態度を採られた経験を何回もしたことがある。

世界を忙しく旅行する多国籍企業の社員などにとっては、移動が容易なことは仕事に直結する話なので、こういった指標を参考に都合の良い国籍を取得しようとする需要があるだろう。
そしてそのためのコンサルティングは立派な商売になっている。
もちろん海外旅行の容易さだけが国籍選択の基準ではなかろう。
そのため、同社はさまざまな要素を勘案して、国籍品質指標(Quality of Nationality Index)を毎年作成している。
それによると日本のランクは一位のフランスからぐっと下がって、クロアチアの次の29位とされている。

グローバルな国籍市場で人気銘柄は、たとえばマルタの国籍である。
東地中海、イタリア南端のシチリア島から一〇〇キロたらずのところに浮かぶマルタはフェニキア人、カルタゴ人、ローマ人、アラブ人、そして聖ヨハネ騎士団など多様な勢力が交錯してきた歴史を持つが、一九世紀以降ここを支配してきたイギリスから一九六四年に独立した。
人口わずか四〇万人あまりだがれっきとした独立国であるマルタは、二〇〇四年にはEU加盟も果たした。
気候は温暖で、税金は低く、通貨はユーロで、英語も公用語の一つである。
そしてこの国の市民となればEUのパスポートが取得でき、それによってヨーロッパ内はもちろん、世界中の多くの国にビザなし渡航が可能だし、EU内で自由に仕事に就くことができる。
おまけにマルタは重国籍を認めているので、すでに持っている国籍を離脱する必要もないし、国籍を取得したからといってマルタに永住する必要さえもない。

ただし、マルタ国籍を取得するには政府に六五万ユーロを拠出するとともに、三五万ユーロ以上の不動産をマルタに保有すること、そして一五万ユーロを政府認可の金融商品に投資することが義務付けられている。
つまりマルタという国家は、国籍を一一五万ユーロつまり約一億五〇〇〇万円で、販売しているのである。

実はこのプログラムの作成そのものにも、上記のヘンリー社が関与していた。
マルタ国籍は、類似のプログラムを持つキプロスなどより割安で、ブルガリアやギリシャよりも割高なものの、国籍の「品質」は高いので、ロシアや中国そしてアラブ産油国の富豪などが二番目、あるいは三番目の国籍として購入しているものと思われる。

かつては、便宜的な国籍を売却するこういったプログラムを大っぴらに実行していたのは、カリブ海の小国に限定されていた。
しかしアメリカやカナダなどの大規模な移民受け入れ国でも、多額の投資と引き換えに永住権を優先的に与える制度が導入されるようになっている。
また、二一世紀になるといくつかのヨーロッパの国もこういった措置を導入するようになった。

■市民と国籍

国籍とは随分不条理な制度だ。
国籍如何によって人生は大きく左右される。
どの国のパスポートを持っているかによって、海外旅行の際にどの程度便利なのかなどといったことは、どちらかと言えば些細な一側面に過ぎない。
国籍如何によって、どの国に無制限に居住し仕事に就けるかが決まる。
またどの国家から様々なサービスを享受できるのかも決まる。
そして民主的な国家の国籍を持ったなら、その国の政治的決定にも参加することができ、世界で自由で民主的な国はせいぜい三分の一程度だ。
医療や福祉、社会保険制度などを通じて手厚いサービスを提供する国は一層少ないが、そういった恩恵を受けられるかどうかも国籍に左右される。
なら、なるべく多くのサービスを受けられて、しかも経済や治安がよいが、税負担は軽く、兵役などない国の国籍に人気があるのは当然で、だからこそ世界中で貧しく混乱した国から、豊かな国に時には非合法な手段を使ってでも入国しようとする人々が絶えないのである。

だが、国家の正式なメンバーとして、こういった居住・就業などの権利を当然に享受できる地位である国籍は、普通まったく本人の意思や努力とは無関係の、出生地や血縁という偶然によって分配される。
「よい国籍」を持つのはいわば「よい両親」を持つようなもので、生誕時点で宝くじに当たるのと同じである。
人間が平等であるべきだという原則に照らせば、これは貴族制にも等しい甚だ不条理な仕組みと考えるしかない。
国籍を売買すれば、そうした不条理を緩和できるかもしれない。
カネを稼ぐには個人の才覚が関係するし、国籍を買うのは個人の意思次第だから、生まれながらに国籍が決められるのに比べれば理にかなっているとも言える。
また、正々堂々とカネで買えるものなら、危険を冒したり、密航業者に大金を払ったりして不法入国したりする必要もなくなる。
価格が十分に低ければ欧米で大問題になっている非正規移民の問題すら緩和できるかもしれない。
国家への愛着などといったものも、単に危険な代物なのかもしれない。
愛国心を煽り人々を排外主義に駆り立てた結果が、戦争だったのではないか。
たまたま生まれた国家への忠誠を強調する制度こそが様々な病理を生んできたのだから、国家への帰属などはまったく実利的なものにした方が、むしろ望ましいのではないか。
国家など地方自治体のような存在になる方がよい。
なら国籍などは国内の住民登録のようなものにしてしまうべきではないだろうか。

しかしとりたてて愛国心が強くなくても、国籍を売買することに違和感を感じる人は多いのではないだろうか。
実際マルタの場合は国籍取得に居住すらも要件としないとしており、これにはさすがにEUの他の加盟国からも反発が寄せられた。
それはなぜなのだろうか?
家系や性別はもちろん、収入や教育も一切無関係に人は皆市民として結びつく、というのが現代の自由民主主義国の大原則である。
成人であるというただ一点で人を包摂する市民という資格を、カネで取引するのはこの制度の原則になじまない。
そもそも世界の圧倒的大多数の人々には、国籍を選ぶチャンスはもちろん、大金を払って国籍を買う自由はない。
であれば結局これは、平等であるべき市民の資格を、一部の特権的な金持ちに優先的に与えることであり、不公正ではないだろうか。
また、国家のメンバーであるということは家族と似ていて、苦楽をともにし、運命を共有する仲間であることが期待される。
また民主的国家の場合、集合的な決定はつまるところ多数決でなされるが、多数決が有効に機能するには多数派の決定に少数派が従わなくてはならない。
しかし敗れた少数派が自分の意に添わない決定でも受け入れるのは、多数派も少数派も同じボートに乗っていて、究極的には運命を共にする仲間だという意識があるからである。
また、社会保障や福祉制度で、市場での敗者が背負う苦境を、税金で分かち合うには、これまた助け合いの仲間だという感覚が共有されているからではないか。
このことは、例えば人口一四億の中国と一億強の日本が、一つの国になって多数決で物事を決めたとすると、日本人がそういった決定に納得できるかどうかを考えてみると、了解できよう。

国籍をカネで買った人には、一般の国民との間に、このような仲間としての絆は期待できない。
カネで国籍を買った人々が、国家の政治的決定に参加すれば、それは票を買ったのに等しい。
カネと引き換えに国家のサービスを享受する人にとっては、国家は民間警備保障会社や保険会社のようなものである。
そういった人々が増えれば、国家の公共性は腐蝕し、多くの市民が国家という制度にシニカルになるだろう。
市場で国籍を買った人は、国家が苦境にあるときに、仲間とともに必要な負担や危険を分担するだろうか。
カネで買った国籍なら「品質が悪い」と判れば捨て去り、より安全でサービスのよい国に鞍替えするだろう。
でも国とはそういうものでよいのだろうか?

このような賛否両論が交錯するのは、国家のメンバーであるということに、両義的な性格があり、矛盾した期待が投影されるからだろう。
★:一方で国家は、一人一人のメンバーの生命や生活を守るための手段である。
また民主的国家の場合、その正統性は人民の合意にあり、自由な個人が合意によって打ち立て、統治を委託しているのが国家なのである。
自由な個人が、理性に基づいて契約を交わすことで国家が成立しているのなら、それは一つの合理的な仕組みに過ぎない。
であれば、どの国に所属するのかも、市場で買い物をするのと同じように、それぞれの好みや必要に応じて合理的に決めればよいということになる。

★:だが他方で、国家にはメンバー間の感情的、文化的な絆に支えられた共同体としての側面もある。
 個人にとっては、それは合理的な目標追求の手段に尽きない、自分のアイデンティティの一部でもある。
 国家への帰属意識を支える人と人をつなぐ絆は、宗教や過去の記憶に基づく世界観や言語や慣習を共有することから得られる、合理的でも普遍的でもない何かに依存している。
とりわけ、一つの民族が一つの国家を形成するのが正しい国家のあり方だとするナショナリズムが支配的な国家形成の原理になった一九世紀以降、民族の伝統や文化が、国民的団結を支える仕掛けとして政治的に大々的に利用されてきた。
それが人種主義や怪しげな神話と結びつき、深刻な病理的現象が生じたことは、ここで改めて繰り返すまでもないだろう。

だが、現在でも植民地から民族独立を実現するための闘争は正当であり、民族が分断されているのは悲劇であると広く見なされている。
また世界の多くの地域で分離独立運動が展開されていて、独立国の数は一貫して増え続けている。
ナショナリズムが過去のものになったとはとても言えそうもないのである。

※第2回:二重国籍者はどの国が保護すべきか?──国籍という不条理(2)

[注]
(1)https://www.henleypassportindex.com/passport-index もっとも別の格付けでは、一位はシンガポールで日本は三位とのことだが、いずれにせよ上位グループの常連であることは間違いない。https://www.passportindex.org/byRank.php

田所昌幸(Masayuki Tadokoro)
1956年生まれ。京都大学大学院法学研究科中退。姫路獨協大学法学部教授、防衛大学校教授などを経て現職。専門は国際政治学。著書に『「アメリカ」を超えたドル』(中央公論新社、サントリー学芸賞)、『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリタニカ』(編著、有斐閣)など。

当記事は「アステイオン89」からの転載記事です。
asteionlogo200.jpg
『アステイオン89』
 特集「国籍選択の逆説」
 公益財団法人サントリー文化財団
 アステイオン編集委員会 編
 CCCメディアハウス



ニューズウイーク 2019年1月30日(水)15時55分 田所昌幸(慶應義塾大学法学部教授)
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/01/2-121.php

二重国籍者はどの国が保護すべきか?──国籍という不条理(2)


●日米の国籍を持つ大坂なおみ選手の活躍は二重国籍をめぐる議論を巻き起こしているが Aly Song-REUTERS

<国家の継続には「帰属意識」も必要となる。
国のために危険を伴う任務を果たせるのか? 
その最たる例が兵役だ。
昨今「二重国籍」を認めるべきであるという議論が高まっているが、二重国籍容認論は安全保障環境の変化と無縁ではないことを田所昌幸・慶應義塾大学教授は指摘する。
論壇誌「アステイオン」89号は「国籍選択の逆説」特集。
同特集の論考「国籍という不条理」を3回に分けて全文転載する>

■国家のオーナーはだれか

さて国家の側から見ると、国籍という制度は何を意味するのか。
今日の領域主権国家は特定の領域を排他的に支配している。
領土を持たなければ、それは国家とは言えないのは、当然とは言え重要な事実である。
しかし同時に、国家は領土を支配するだけではなく、国民がいなければ成立しない。
つまり国家は領域的組織であるとともに人的組織でもあるのである。

前近代の封建社会では、国家の領域的性格と人的性格の間には矛盾はなかった。
というのは領主が支配した領土に居住していた領民は、いわば土地の付属物であり、政治的参加をするわけでもなければ、自由に国外に移動できるわけでもなかったからである。
そもそも前近代には、人口の圧倒的大部分を占める農民に、国内でも移動の自由が一般的に認められていたわけではなかった。
人々が移動しないのなら、領土の支配はただちにそこに居住する住民の支配も意味する。

今日でも国籍を決定する基本的な原則は、
1」:両親の国籍を継承するとする血統主義と、
2」:出生地を基準に国籍を決める出生地主義
の二つである。
血統主義に人種差別の匂いを感じて、それに比べて出生地主義をより先進的と見なす向きもあるが、実は出生地主義は封建制度の起源を持つ制度であって、
血統主義はフランス革命後にナポレオン法典によって導入された制度である。
フランス革命の結果、臣民から市民となった国家のメンバーは、国家が支配する対象ではなく、国家の主体だということになった。
つまり国王に代わって市民が国家のオーナーになったわけで、国家とそのメンバーの間に強い双方向的関係が期待されるようになった。
フランス革命後のフランスでは、生誕地の方が偶然の要素が強く、両親の国籍の方が国家との継続的な結びつきを判断する基準として、より合理的だと判断されたのである。

さて国家にとって厄介な事態が生ずるのは、領域的主権と人的管轄権にずれが生ずる場合である。
市民革命を経て人の移動の自由が権利とされ、しかも移動技術が飛躍的に進歩したため、人々はかつてよりはるかに活発に国境を越えるようになった。
つまり移民や難民の規模が非常に大きくなると、市民と非市民が同じ領土内でともに居住することになる。
今日の自由民主主義国家は、領域内の人々が市民であろうが非市民であろうが、彼らの人権を保護し、彼らの生命財産を守り、子供には教育を、病人には医療サービスも提供するのが原則だとされている。
しかも国家がその領土で提供する治安維持や財産権保護といった基本的サービスは、経済学者が公共財と呼ぶものであって、費用を負担しないからといってその便益から排除できない。
つまり市民であろうと非市民であろうと、当該国家にいる限りその恩恵を享受する。
もちろん非市民も、とりわけ居住者であれば市民と同様に税金を支払っているだろう。
むしろ市民以上に国家や地元コミュニティに貢献している非市民も少なくないだろう。
その限りでは国家の提供するサービスに費用を払わないでただ乗りする、フリーライドの問題は生じない。
だからこそ、代表なければ課税なしの原則に照らせば、むしろ居住している外国人にも、地方参政権といわず国政でも参政権を与えるべきだ、と主張することもできよう。

しかし国家が継続的に存続するために、そのメンバーに負担を求めるのは税金だけではなく、人的・政治的そして精神的な負担が分担されてこそ国家は再生産できる。
国家は時に危険の分担もメンバーに求めざるを得ない。
警察官、消防士、海上保安官といった人々に危険を伴う任務を果たすよう求めても、誰もそれに応じなければ国家は存続できない。
そのことを最も鋭く示すのが、兵役の義務である。
欧米の歴史を見ても、国家への帰属を確定する国籍制度の展開が、兵役の問題と密接に関連していたのは偶然ではない。
確かに日本はもちろん、多くの欧米諸国でも冷戦後に徴兵は行われなくなったが、国家を守ることは市民としての義務と認識されている。
状況次第では兵役義務が復活する可能性は常にあり、現実に近年北欧諸国では兵役義務が復活しているし、フランスでも限定的な兵役が再開された。

お隣の韓国では兵役は若い男性にとっての厳しい義務となっていて、私が教える大学でも、兵役のために一時休学を余儀なくされる韓国人留学生は少なくない。
逆に韓国には数万人の在留邦人がいて、韓国軍兵士の提供する安全を享受していることになる。
税金を払っているからといって在留邦人にも韓国の国政参政権を要求でもすれば、韓国民が不満を憶えるのは想像に難くない。

ところで、上の在外邦人の例からも想起されるが、国家は国内に居住・滞在する人々に責任を持つだけではなく、国外にいる自国民に対しても保護を提供する責任も負っている。
日本人が国外で事故や事件に巻き込まれれば、現地の領事館はこういった在外邦人を保護すべく活動する。
かつては在外自国民の保護を名目に軍事介入が行われたことも少なくない。
そういった事例は極端としても、今日でも紛争地域から自国民を避難させるために軍隊を派遣することは現実的な可能性だ。
もちろん外国の領土に勝手に軍隊は派遣できない。
朝鮮半島有事の際に邦人救出のために自衛隊でも派遣すれば、「韓国は北朝鮮と同盟を結んで日本に立ち向かう」という話があるくらいである。

しかし派遣先の国家の同意があったとしても、在外自国民の保護は、保護を提供する国家にとって、政治的・経済的そして人的にも、国内以上に費用がかかり危険も大きい。
それが国家に期待される当然の役割だとしても、国家はどこまでの政治的・経済的そして人的負担を、国内に在住する国民に求めるべきなのだろうか。
とりわけ長期にわたって母国を離れていたり、血縁関係によって国籍を持っていても一度も居住さえしなかったりする在外国民や、重国籍者が増えると、答えは自明とは言いがたい。

以上のような問題は、人の移動だけではなく国境が移動しても起こる。
脱植民地化に伴って、旧宗主国出身の住民は本国へ「帰国」を余儀なくされた場合が多い。
日本の場合も敗戦に伴って満州や朝鮮半島に居住していた人たちが、引き揚げを余儀なくされた。

しかし、複雑な事例も多い。エストニアやラトビア、リトアニアのバルト諸国は、一九三九年に独ソ不可侵条約によって一方的にソ連に併合された。
冷戦後独立を回復したこれら諸国は、ソ連時代に移り住み定住したロシア系住民とその子孫の国籍取得に厳しい条件を付けた。

バルト諸国のロシア人のように、自身は移動しなくても国境が変動したために「外国人」や「少数派民族」になってしまった人々は、世界を見渡せば相当多い。
何十年も「祖国」に住んできた人たちを、突然外国人扱いするのはどうかというのももっともかもしれない。
血縁関係や出生地などよりも、住み、働き、家族や友人を持つという事実、つまり長期にわたる居住を根拠に国籍を分配するべきだ。

もしこういった考え方に立つのなら、国境の再編成によって「外国人」になってしまった人々には、現居住国の国籍を取得する権利が与えられてしかるべきだ。
現居住国の国家にとっても、国内の少数民族集団が不満を抱えたままなのは問題であることは明らかであり、国民的統合を推進するためにも、国籍を寛容に分配する方がよいのかもしれない。

しかしソ連による併合は一方的な軍事的征服で、その結果であるソ連時代は不法な占領であるというのがバルト諸国の立場である。
しかもウクライナがロシアから受けた仕打ちを見れば、ロシアとの国境も依然として安定していると確信はできまい。
そうならバルト諸国が、単に長期の居住だけを根拠にロシア系住民を自動的に自国のオーナーとして処遇するのに躊躇しても、排外主義の一言で片づけられるほど簡単な話でもないだろう。

こういった難問が起こるのは、国家には人的組織であると同時に領域的組織でもあるという二面性があるためである。
国家・領土・国民の三者がすっきりと一貫しているのが、国民国家の標準的なモデルだ。しかし、三者の間には日本も含めて現実にはズレがあるのが普通だ。

しかもそのズレは今後大きくなりそうである。
そうなると国家は誰のものなのか。
国家は誰に対して責任を持つのか。
この問題は、民主的な福祉国家の場合にとりわけ鋭く問われざるを得ない。

しかも国家を構成するのは、現世代だけではない。
国家が長期にわたって継続する制度であるためには、過去を共有すること以上に、未来世代への責任感を共有することが必要だ。
年金制度も自然環境も、次の世代とのつながりがなければ、維持できないのだから。



ニューズウイーク 2019年1月31日(木)11時50分 田所昌幸(慶應義塾大学法学部教授)
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/01/3-124.php

国籍が国際問題になり得るのはなぜか──国籍という不条理(3)

<「国外の自国民の保護」も「国内の外国人の権利保障」も、管轄権をめぐる争いの要因となり得る。
昨今「二重国籍」を認めるべきであるという議論が高まっているが、二重国籍容認論は安全保障環境の変化と無縁ではないことを田所昌幸・慶應義塾大学教授は指摘する。
論壇誌「アステイオン」89号は「国籍選択の逆説」特集。同特集の論考「国籍という不条理」を3回に分けて全文転載する>

※第1回:国籍売ります──国籍という不条理(1)
※第2回:二重国籍者はどの国が保護すべきか?──国籍という不条理(2)

■国際的制度としての国籍

国籍は国家の人的管轄権の範囲を決める制度だから、これは必然的に国際的な制度でもある。
だが、この特集でウェルチが論じているように(編集部注:「アメリカ人をやめた私――重国籍の逆説」、『アステイオン89』所収)、この面はあまり論じられてこなかったテーマである。
国家の管轄権として伝統的に問題にされてきたのが、もっぱら領域的管轄権、つまり領土問題であることが、その一つの理由だろう。

現在の国際秩序の最も根幹にあるルールは、それぞれの国家がそれぞれの領土に対する支配を、相互に承認しあうことにある。
だからこそ依然として領土問題は最重要の国際問題であり、実利的な価値に乏しい領土であっても、その領有権をめぐる争いが時として武力紛争にすら発展しかねない深刻性を帯びているのは、そのためである。

国籍は国家の人に対する管轄権の範囲を確定する制度であり、国家が誰に対して責任を持ち、誰から必要な資源を強制的にでも調達できるのかを確定する役割を担っている。
個人の立場から見ると、もし二つ以上の国籍を持つと、いろいろな実利的あるいは精神的な利益があると同時に、複数の国に対する義務が、時として両立できないという問題が起こりうる。
これは国際秩序の観点から見ると、領土問題と同様で、国家の管轄権が重複することに他ならない。
これが国家間の紛争に発展する恐れがある点も、ウェルチが指摘するところである。

逆に何らかの理由によって国籍を持たない人も居る。
非市民の権利保障が一定の水準に達していれば、この特集で陳天璽が言及しているように(編集部注:「無国籍を経験して」、『アステイオン89』所収)、あえて無国籍を選択することもできるだろうが、無国籍者はどの国家からも必要な保護を得られず、様々な不利益を受ける。

事実一九世紀統一前のドイツで諸領邦の国籍法が整備された直接の動機になったのは、貧困移民の保護にどの国が責任を持つかを明確化するためであった。
近年ミャンマーで問題となっているロヒンギャ族の人々の事例でも、ミャンマー政府が彼らのミャンマーへの帰属を否定し、バングラデシュからの難民だという立場をとっていることから、国家と国家の間の狭間に迷い込んだ彼らは、深刻な人権侵害に苦しんでいる。

それもこれも、国籍制度は個々の国家が個別的に決めていて国際的に調整されているわけではないからで、原理的には血統主義を取る国民を両親として、出生地主義の国で出生すれば、重国籍になるし、逆のケースでは無国籍になるはずである。

現実には諸国は国籍取得や国籍離脱の制度をつぎはぎして、上のような問題に対処してきた。
しかし時に管轄権の重複によって相当深刻な国際問題が生じた事例もある。
たとえば一九世紀のヨーロッパ諸国には、国籍離脱が制度化されていない国が少なくなく、例えばイギリスの場合は、コモンローの伝統によって国王の支配する領土に生まれれば、国王の保護を受けると同時に生涯不変の忠誠を誓う臣民であると理解されていた。

そのためアメリカに移住したイギリス生まれの人々も、イギリス人であるという立場をとっていたため、英海軍がアメリカに帰化したイギリス出身者を強制的に徴募したり、当時はイギリス領だったアイルランドからの移民が、アイルランドの独立運動を支援するために、これまたイギリス領だったカナダに攻め込んだりといった事件が起こっている(2)。

移民を大規模に受け入れていた新興国家アメリカとしては、こういったもめ事をヨーロッパ諸国と起こすのは避けたかったので、ヨーロッパ諸国と個別に外交交渉を行い、国籍の重複を防ぐ取り決めを行っている。
バンクロフト諸条約と言われるのが、それである。
その他にも国籍制度を整合化する努力が行われたこともあるが、そこでの原則はあくまで個人が唯一の国籍を確実に持つようにすることであり、無国籍や重国籍を防いで、国際紛争を防止することにあった。

しかし冷戦終結後は重国籍を認める国が増えている。
この背景には、国際結婚の結果、父系だけではなく母系の国籍も同様に尊重されるべきだという男女平等の考え方が強まったこともある。

また移民の送出国側も、出国した自国民との関係を維持して、在外の自国民からの送金や技術移転を得ようとして、いわゆるディアスポラ関与政策を強化していることもあるだろう。
そして何よりも国境を越えた人的移動が活発になれば、国際結婚を始め様々な事情から、結果的に重国籍状態になったり、二つ以上の国に帰属する実利的および精神的ニーズが強まったりするのは、当然の成り行きである。
この点は、この特集で鈴木章悟が強調している(編集部注:「英国人にさせられた日本人」、『アステイオン89』所収)。

しかしここで忘れてはならないのは、重国籍に寛容になれた背景には、冷戦後に安全保障環境が劇的に改善したことがある点である。
国境が安定した平和な国際環境では、複数の国家への義務や帰属意識が深刻に衝突する事態は考えにくい。

とりわけヨーロッパでは、自由民主主義や人権などの基本的な規範が共有されただけではなく、EUが拡大強化され、広域的な人の移動が自由化される一方で地域機構も強化されたので、域内のどの国の国籍を持っていても就業や居住などの基本的な権利に相異はなくなったし、加盟国の制度や政策の調整も飛躍的に強化された。そのためEU加盟国相互では複数の国籍を持っても、不都合は感じられなくなったのである。

このような冷戦後のヨーロッパのような国際環境が、世界中で実現したわけではないのは言うまでもない。
日本周辺の東アジアのように、地政学的緊張はむしろ高まり、複数の国家への帰属が両立しにくい現実が世界の多くの地域の現実である。
また広域的な秩序形成に大きな成果を上げたヨーロッパの場合ですら、環境は変化するかもしれない。

イギリスは二〇一六年に国民投票によってEU離脱を決めており、それが実施された後に、イギリス在住のEU市民、EU在住のイギリス市民、そして重国籍者の法的地位がどうなるのかについて、不確実性が高まっている。

また、なくなったはずの地政学的脅威がロシアの対外姿勢が強硬になるにつれて高まり、一部ヨーロッパ諸国でも徴兵制が再開されている。
そうなるとどの国家に帰属するかは、EU市民にとっても再び切実な問題になるかもしれない。
国家と国家の緊張が高まれば、国家は自国の領域的範囲同様、人的範囲について、より神経質にならざるを得ない。
それは非自国民が皆外国政府のスパイだという妄想だけによるものではない。
国外の自国民の保護も、国内の外国人の権利保障も、そもそも誰が何処に帰属しているかについて諸国が認識を共有しなければ、管轄権をめぐる紛争の要因になりかねないからである。

■共存のために

国籍が国際問題になり得るのはなぜなのか。
それは、一方で人が平等で個人として尊重されねばならないというリベラルな原理が日本も含む自由民主主義諸国の基本的な規範となっているが、そういった規範に実効性を与えている究極的な制度が、歴史の現段階で国家以外にないという点にあるのではないか。

そして結局のところ現在の国際秩序は、リベラルな原則に基づいて設計されているわけではなく、異質で多様な人々が国家という制度を尊重することで共存するための制度だからである。
地球上の人が法的に平等であれば、人々がそれぞれの国家に帰属し、それによって隔てられるのは不合理である。
だが、今日市民の権利を実効的に保障しているのは、それぞれの国家であって、何らかの国際的制度でないのも厳然たる事実である。

もちろん国家主権の尊重に基礎を置く国際秩序そのものも歴史的産物であり、また個別の国家はこれまでも消滅したり分裂したりを繰り返してきた。
また共存のための制度も、主権国家システム以外に論理的に考えられないわけでもない。

しかし、巨大な世界帝国でも誕生しない限りは、あちらこちらにほころびのある領域主権国家秩序をやりくりする以外に現実的な方法がないとするのなら、どの国家に帰属するのかによって、人の運命が左右される不条理は今後も続くとみるべきであろう。

同時に、人々がますます活発に移動する現代の条件下では、文化的にも法的地位の面でも、多様な人々が国内に居住し共存することを前提に、国家は制度を設計・運営することが求められ、社会も同質性を前提としては立ちゆかなくなるであろう。
もしそうした課題を国家が管理できなくなれば、世界は多文化主義の楽園に至るのではなく、おそらく無政府的な混乱に陥るだろう。

[注]
(2)こういった事例については、拙著『越鏡の国際政治』(有斐閣、2018年)の三章および四章で、より詳しく論じた。






 

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