2019年4月12日金曜日

ゴボウとミョウガ

_


JB Press 2019.04.12(Fri) 漆原 次郎
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56064

なぜ日本人だけがゴボウを育て文化に発展させたのか
世界で唯一の発展を遂げた根菜の物語(前篇)


●ゴボウ。栽培がなされ、またさまざまな料理に使われる点で日本特有とされる。

 日本人は「根菜」、つまり根や地下茎を食用とする野菜をたくさん食べてきた。
 本コラムでも取り上げたダイコンの他、ニンジン、カブ、レンコンなどなど。
 土の中で蓄えられる栄養を大切にいただいてきたのだ。
 さまざまな根菜の中でも「ゴボウ」ほど、日本の特有性が高い食材はないだろう。
 伝来種とされながら、日本でのみゴボウ栽培が発展していった。
 また、ゴボウがさまざまな食材として使われているのも日本だけという。
 東日本ではきんぴらゴボウ、西日本ではたたきゴボウが、ハレの日にも日常的にも食べられる。
 汁物や炒め物の具材、また天ぷらのタネとしても使われる。今も日本人はゴボウ好きといえよう。
 今回は、ゴボウをテーマに、日本における歴史と現在を前後篇で追っていきたい。
 前篇では、日本での独自の歩みを農と食の観点からたどっていく。
 ゴボウが栽培されたり、さまざまな料理に使われたりといった発展を遂げたのは日本だけ。
 その理由にも迫りたい。
 後篇では、ゴボウに注がれている現代の研究について伝えたい。
 福岡県で取り組んでいる「サラサラごんぼ」という新品種の開発について紹介する予定だ。

■平安時代の古文書に「悪實」「支太支須」という言葉が

 ゴボウというと、色や風味からいかにも日本の食材っぽい。
 だが、原産地は西アジアから地中海沿岸にかけて。
 日本への渡来については、平安時代、薬用として使われていた中国からという説がある。
 その一方で、より古く、縄文時代の鳥浜遺跡(福井県)、三内丸山遺跡(青森県)、忍路土場(おしょろどば)遺跡(北海道)などからゴボウの種子が出土している。
 複数方面からの経路があったのかもしれない。
 日本の文献に初めてゴボウの記述があったのは、平安時代の昌泰年間(898-901)に成立した漢和字書『新撰字鏡』において。
 「木」の部に「悪實 支太支須乃弥」とある。
 「悪實(悪実。あくみ)」は、ゴボウの種子のこと。
 また「支太支須(きたきす)」はゴボウの古名だ。
 今も使われる「牛蒡」の字については、延喜年間(901-923)に成立した本草書『本草和名』の第九巻「草中」に「悪實 一名牛蒡(略)和名岐多伊須」とある。
 なお、「牛蒡」は、ゴボウのひげ根が牛の尾に似ており、それに草の名前の「蒡」がついてできたといわれる。
 かつては「うまふぶき」とも呼ばれていた。
 また、「牛房」と書かれることも多い。


●古文書におけるゴボウの記述。(右)『新撰字鏡』「木部五十八(本草木名)」より。(左)『本草和名』第九巻「草中」より。(所蔵:ともに国立国会図書館、赤矢印は筆者による)

■「栽培植物へ」という一大転換

 ゴボウが日本人にどのように栽培されるようになったか。
 その歩みも文献の記述からうかがえる。
 承平年間(931-938)につくられた辞書『倭名類聚抄』に「牛蒡」が出てくるのは「蔬菜部」の「野菜類」において。
 この部には「園菜類」もある。
 ここから、北海道開拓記念館元学芸部長の山田悟郎氏は、当時のゴボウは畑で栽培されたものでなく、山野で採られた山菜だったと考えられると推測する。
 では、ゴボウが栽培されるようになったのはいつごろか。
 京都の東寺に伝えられた古文書『東寺百合文書』には、鎌倉時代中期の1266(文永3)年における丹波国の大山庄領家の注文事として「牛房五十把」また「山牛房卅本」の記述がある。
 ここから「山牛房(やまごぼう)」だけでなく、栽培された「牛房(ごぼう)」も存在したと見ることができる。
 つまり、この2つの文献から、平安中期から鎌倉中期の間に、ゴボウが栽培されるようになったことが推察できるわけだ。
 世界で日本だけとされるゴボウ栽培を、まさにこの時期の日本人が成し遂げたことになる。

■江戸期に生まれた滝野川ゴボウが日本各地に広まる


●収穫後のゴボウ。江戸時代に誕生した滝野川ゴボウが、その後、日本各地に広まっていく。

 その後、江戸時代にもなると、日本の各地でそれぞれに特徴を持ったゴボウが栽培される時代となった。
 今の千葉県匝瑳市大浦地区に古くから根づいていた「大浦ゴボウ」、石川県七尾市の沢野婆谷神社の神職が京都からコボウの種を取り寄せて植えたのが始まりとされる「沢野ゴボウ」、山口県美祢市美東町の赤土を利用した「美東ゴボウ」などだ。
 そうした中、元禄年間(1688-1704)、江戸の北豊島郡滝野川村(今の北区滝野川)では、鈴木源吾という人物がゴボウを改良し、栽培に取り組んだ。
 当地は水田に乏しかったが、やわらかな黒土に覆われて水はけはよく、畑作には適していたようだ。
 そこで、根の長い大きなゴボウが作られた。
 そして地名から「滝野川ゴボウ」と呼ばれるようになった。
 鈴木はゴボウの種子を売ってもいたらしく、その後、滝野川ゴボウは日本の各地に広まっていった。
 各地でその後、生まれた品種の多くには、滝野川ゴボウの系統が含まれるようになり、今や日本で栽培されているゴボウの種の9割は、滝野川ゴボウの系統に関係しているともされる。

■「きんぴら」も「たたき」もハレの日の料理食材だった

 食材としてのゴボウにも目を向けてみたい。
 中国からの影響を受け、当初は日本でもゴボウは薬用として使われていたとされる。
 料理にゴボウが使われていたことが分かる最古の文献は、平安時代の1146(久安2)年ごろ作られた、恒例・臨時の儀式、行事における調度についての記述『類聚雑要抄』にある。
 1118(元永元)年9月24日に供された宇治平等院御幸御膳のうち「干物五杯」の字の下に「海松(みる)、青苔(あおのり)、牛房(ごぼう)、川骨(かわほね)、蓮根(はすのね)」と並んでいる。
 その後は、南北朝時代から室町時代にかけて成立したとされる教科書『庭訓往来』の中で「煮染牛房」と記されている。
 ゴボウは煮物の材料だったようだ。
 日本の各地におけるゴボウ食は、どう展開していったのだろう。
 ゴボウの食文化などを研究する冨岡典子氏は、正月などの儀礼食として、関東以北では「きんぴらゴボウ」が、近畿地方では「たたきゴボウ」や「ゴボウのおひたし」が伝承されてきたと述べている。
 そして、祭りではゴボウがお供えになっていたことも触れ、「古代よりごぼうが神饌として供されたことが近畿地方を中心にごぼう料理の発達を促したと考えられないであろうか」と推測している*1。


●きんぴらゴボウ。呼び名の由来は、江戸時代の「金平浄瑠璃」の主人公、坂田金平(坂田金時の息子)の強さに通じるからとも、金平を演じた役者の髪型がゴボウに似ていたからとも。

 煮しめ、きんぴら、たたきなどのゴボウ料理は、基本的には「ハレの日」に出されるものだったようだ。
 だが、江戸時代も下ると、総菜屋などでゴボウが売られるようになり、庶民の日常食としても食べられるようになった。
 1853(嘉永6)年に完成した喜田川守貞の風俗考証書『守貞漫稿』には、「菜屋」と呼ばれる総菜屋の記述があり、生アワビやスルメ、焼き豆腐などの他、クワイ、レンコン、そしてゴボウが醤油の煮しめとして売られていたという。
 こうした店は江戸のあちこちにあったとも記されている。


●たたきゴボウ。「たたき」は、ゴボウを茹でて叩いて砕くことから。

■外国人は「ゴボウ食で虐待された」と訴える

 太平洋戦争中、ゴボウを巡ってこんな国際事件があった。
 日本軍は敵国捕虜たちにゴボウ料理を与えていた。
 だが、捕虜たちにはゴボウ食の文化も経験もあるはずがない。
 戦後の軍事裁判では、当時のオーストラリア人捕虜から「私は木の根を食べさせられた」という虐待を受けたとの訴えがあった。
 ゴボウを与えていた旧日本軍人は戦犯扱いになったともいう(その罪だけではないだろうが)。
 ゴボウを食べる文化と食べない文化の違いから生じた出来事だ。
 世界を見渡しても、ゴボウを食べる文化があるのは日本と韓国ぐらい。
 その韓国も、日本ほどさまざまなゴボウ料理があるわけではない。
 日本におけるゴボウの栽培や食は、世界で唯一のものといってよい。

 ではなぜ、ゴボウの栽培や食が日本だけでこれほど発展したのか。
 前出の冨岡典子氏は、ゴボウとよく似た日本原産のアザミ属を食べる習慣が一要因だという考えを示している*1。
 キク科アザミ属の「モリアザミ」は「山ゴボウ」とも呼ばれ、古くから根も食べられてきた。
 日本原産の山ゴボウに対するこうした食習慣が前段にあり、日本人だけが当然のようにゴボウも「食べられるもの」と認識し、日本固有のゴボウ食文化にまで発展したとすれば、興味深いことだ。
 他の国のことはつゆ知らず、日本人はゴボウの格を上げに上げてきたのだ。
 そして今もなお、ゴボウの栽培や食を発展させる日本人の営みは続いている。
 後篇では、ゴボウの新品種の開発の取り組みを追ってみたい。

(後篇へつづく)

*1:冨岡典子「日本におけるごぼうを食材とした料理の地域的分布と食文化」 日本家政学会誌 52, 511-521 (2001)



サーチナニュース 2019-05-23 12:12
http://news.searchina.net/id/1679041?page=1

体にいいこの野菜を日本人は珍重し、
中国人は「害草」として捨ててきた=中国メディア

 夏が近づくにつれて、夏に旬を迎える野菜が市場に出回り始めている。
 その一つが、そうめんやひやむぎの薬味や漬物として食されるミョウガだ。
 中国メディア・東方網は22日、ミョウガについて「日本人は宝物のように珍重するのに、中国人は害のある草とみなしてきた」とする記事を掲載した。
 記事は、ミョウガが強い生命力を持っており、「放っておけばその辺から自然と生えてくる」と紹介。
 地面の栄養分を吸収して急速に生長するミョウガは田畑で繁殖すると作物の生長に影響を及ぼし生産高が減るため、中国では農家から疎まれる雑草扱いされていると伝えた。
 また、中国ではミョウガが実は食べられることを知っている人が少ない一方、日本では価値の高い作物として栽培され、食用されていると説明。
 炒め物やあえ物に入れたり、細かく切って薬味にしたりといった食べられ方がされてきたが、健康志向の高まりとともに体にいい食べ物として注目されるようになり、その用途も増えつつあると紹介した。
 記事は、ミョウガが日本で広く食べられていることを知った中国の農家が近年商品作物としてミョウガを栽培し、日本に輸出して相応の経済効果を得ているとも伝えている。

 その苦さと香りゆえに敬遠する人も少なくないミョウガだが、好きな人にとっては熱さを和らげるような苦味と爽やかさが夏の到来を感じさせてくれる食材だ。
 ミョウガを食べると物忘れが激しくなるというのは根拠のない言い伝えであり、香りの成分が逆に集中力を高めてくれるとのこと。
 暑さにぼーっとしがちの夏にはやはりもってこいだ


ダイヤモンドオンライン 2019.5.19 江部康二:医師・財団法人高雄病院理事長
https://diamond.jp/articles/-/201915

1日3食は正しくない

まるで“浮き輪”のようなお腹まわり・・・このポッコリお腹をなんとか凹ませたい。
でも、「あんまり頑張らずに」ってのが人情ですよね。
運動すれば痩せるのはわかってる。
けれど、それができない。やりたくないんですよね。
わかってます、わかってますとも!
その体脂肪、運動ナシでも落とせる方法を教えましょう。

 1日3食を規則正しく食べるのが健康的とされています。
 そう学校で指導されたという人も多いですから、1日3食が当たり前だと思っていることでしょう。
 しかし、1日3食が健康にいいという証拠はどこにもありません。
 私自身はもう35年以上1日2食で超健康体です。
 これは、人類の歴史をさかのぼってみればわかることです。

 人類の歴史は700万年であり、米や小麦などの農耕を始めたのは1万年前、それ以前の約700万年は、狩猟・漁労・採集の日々を送っていました。
 そんなご先祖様が、1日3食をきちんと食べていたと思いますか?
 獲物が手に入ったときにたらふく食べて、それ以外は何日もひもじい思いをするのが当たり前の生活だったはずです。
 人類の歴史は、飢餓との戦いだったのです。

 1万年前に農耕を始めて定住するようになり、ようやく食べ物を貯蔵できるようになり、定期的に食事ができるようになりました。
 それでも、1日3食は食べていなかったに違いありません。
 それだけ豊富に食べ物がなかったからです。
 日本人は長い間、1日2食が普通でした。
 佐伯栄養専門学校の星屋英治氏によれば、少なくとも江戸時代までは1日2食でした。
 贅沢な暮らしをしていると思われがちな貴族社会でも、1日2食が普通だったのです。

 宮中における日々の行事などを記した後醍醐天皇撰の『日中行事』には、「朝の御膳は午の刻なり。(中略)申の刻に夕の御膳まいる」という記載があります。
「朝食は午の刻(正午)で、夕食は申の刻(午後4時)だった」ということです。
 朝起きてひと働きしてから、正午くらいに朝食を食べ、もうひと働きしてから、日が落ちる前に夕食を食べて眠る――これが自然な生活リズムだったのでしょう。

 鎌倉時代以降、武士の間では戦でのエネルギーを補給するため、1日3食にする者も現れましたが、これは例外的。庶民や貴族は、ずっと1日2食だったのです。

■いつから1日3食になったのか?

 庶民が1日3食になったきっかけは、江戸時代の「明暦の大火」(1657年)という説があります。
 焼失した江戸の町並みを復興するため、江戸幕府が全国から大工や職人を大勢集めて、朝から晩まで急ピッチで働かせました。
 このときに従来の朝食と夕食だけでは体力が持たなかったため、昼にも食事を出すようになり、1日3食の習慣が広まっていったといわれます。

 全国的に1日3食が定着したのは、明治維新後に軍隊ができたのがきっかけでした。
 軍隊に兵隊を集めるため、1日3食を提供することで「白米が毎日3回食べられる」ことを売りに、貧しい農家の次男坊や三男坊を募集したのです。
 その後、1920年に国立栄養研究所が開設されて、初代所長に佐伯矩博士が任命されます。
 その佐伯博士が栄養士制度を発展させるため、1924年に設立した“世界初の栄養学校”が、前出の佐伯栄養専門学校。日本で1日3食が積極的に奨励されるようになったのは、1935年にその佐伯博士が提唱したことに始まるとされています。

 イギリスやフランスなどのヨーロッパ諸国では、日本の戦国時代にあたる15~16世紀頃に、それまでの1日2食から1日3食に移行したとされます。
 朝食は英語で「breakfast」ですが、1日の最初の食事=断食(fast)を破る(break)を意味していたのが転じて朝食という意味になりました。
 必ずしも朝起きたタイミングで食べていたわけではなく、当初の「breakfast」は日本の貴族たちと同じように、ひと仕事終えたあとの正午頃に食べていたのかもしれません。

 いずれにせよ、日本でもヨーロッパ諸国でも1日3食の歴史は、ごく浅いことに変わりありません。
 1日3食が規則正しい食生活の基本であるという主張は、こうした歴史的背景を無視した根拠のない幻想にすぎないのです。
 こういう歴史的事実を知れば、1日2食がなんらおかしなことではないと納得していただけるでしょう。


サーチナニュース 2019-08-05 16:12
http://news.searchina.net/id/1681340?page=1

中国で拡大するジャポニカ米の生産と消費、
価格安定めざし大連でコメ先物取引始まる

 日本では、主食としての米(コメ)の消費量が減退する「コメ離れ」がいわれているが、中国では日本米のような「粳米」(米粒が比較的丸いジャポニカ種)の消費が年々拡大している。
 すでに、中国は、米の生産量と消費量で世界最大国となっている。
 この8月16日には、大連商品交易所で「粳米」の先物取引が開始されるが、それを機にコメの流通市場が一段と整備され、コメの生産・消費の拡大に弾みがつくと期待されている。

 中国では、「粳米」(ジャポニカ米)よりも「インディカ米」(長粒種、日本ではタイ米とも呼ばれる)の生産が多い。
 中国で生産されるコメのうち、ジャポニカ米の比率は2018年で33%を占めるにすぎない。
 それでも年間生産量は概算で4700万トンとなり、世界のジャポニカ米の生産量の68%を占める。
 現在、年率平均4.2%増のペースで生産高が拡大しており、中国産のジャポニカ米の存在感は一段と高まる見通しだ。

 中国の省別のジャポニカ米の生産シェアは、黒竜江省が34.5%でトップ。次いで、江蘇省の26.1%、吉林省の9.7%、遼寧省7.1%が続く。
 江蘇省は、元はインディカ米の主要産地の一つだったが、ジャポニカ米に栽培移行した。

 ジャポニカ米の消費量の上位は、江蘇省、遼寧省、山東省がベスト3だ。
 日本の農水省の調査によると、北部の都市住民や農村住民の主食が小麦からジャポニカ米に移行する動きが続いている。
 上海市、江蘇省、浙江省のコメ消費は既にインディカ米からジャポニカ米へほぼ移行し、湖北省と四川省もジャポニカ米消費量が比較的大きい地域となり、広東省、広西自治区などのジャポニカ米消費も近年増加しているという。

 新たに、大連商品交易所で開始される「粳米先物」は、コメの価格変動が比較的大きいため、その価格変動リスクを低減する役割が期待されている。
 たとえば、過去3年間で黒竜江省富錦市のジャポニカ米の工場出荷価格は、最低価格がトンあたり3240元から最高価格は4500元と、最大で39%の開きがあった。
 コメの加工利益は製造コストと労働価格の上昇により、トン当たり80~100元、利益率にして約2%~3%になってしまっており、出荷時期による価格の変動がコントロールできなければ、たちまち赤字になってしまうというリスクがあるという。

 中国の3大先物市場の一角である鄭州商品交易所には、既にジャポニカ米の先物市場があるが、売買は活発とはいえない状況だった。
 今回、より規模が大きな大連で「粳米先物」の取引が開始されることが刺激となって、鄭州のジャポニカ米先物も活性化することが期待されている。

 日本で「コメ離れ」が続いているのは、日本のコメ市場が「ブランド」や「産地」を限定して販売されることが一般的で、人気ブランドの価格が高騰してしまったことが一因になっている。
 また、需要が減退しても価格が一定水準以上に維持されていることもあって、デフレ時代に食料品としての価格が割高に感じられるようになったのだろう。
 それと比較すると、中国のコメは、「工場出荷価格」で価格が示されるほど、コモディティ化している。
 価格も日本での流通価格の数分の1だ。
 今後、中国のコメにも、日本同様に「ブランド米ブーム」がやって来ることがあるのだろうか?


_