2019年4月30日火曜日

平成31年4月30日:「平成」最後の日 「平成は良い時代であった!」

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● google画像から

  今日は平成最後の日である。
 我が人生を大づかみに分けてみると、3つになるだろう。
 生まれ育った「昭和の時代」
 オーストラリアを軸とした「平成の時代」
 そして明日から始まる「令和の時代」。
 
 平成元年は節目として人生に大きくかかわっている。
 昭和64年は1月7日で終わり、平成元年は1月8日から始まった。
 この年(1989年)の4月に育ち住み慣れた土地を離れ郊外に引っ越している。
 永住権の取得とか不動産の購入とか、あるいは日本での生活の整理とかいったオーストラリア移住へのもろもろの準備に入るためである。
 疎開地からの引っ越しは別にして物心ついた小学校入学前あたりからこの年まで住み続けた土地を離れたことになる。
 それが昭和の終了であり平成の始まりとなる。
 まさに人生の大きな区切りが元号の変更とともに訪れている。

 そして四年後の平成5年4月(1993年)に移住を実行する。
 それから26年と少々、この地で生活をすることになったわけである。
 よって平成の30年間はオーストラリアとの関わり合いの中で過ごした日々になるといっていい。
 私にとって少なくとも昭和よりは安穏の時代として過ごさせてもらったと思う。
 まさに「平成」であった。
 平成時代を否定的に論じる人が多い昨今だが、私にとって平成は最高の時代だった、といっていいだろう。
 そのせいか平成を悪くいう人には無性に腹が立ってくる。
  時代よりも国が違うということの方が大きいかもしれないが。

  さて明日5月1日から令和になる。
 最後の区分の時代に入ることになる。
 七十を半ばに近くなると、生きることにさほど興味がなくなる。
 生にしがみつくことに、どちらかというと軽蔑まで覚えてくる。
 いかに充実した形で死すか、に意識のウエイトがかかってくる。
 「令和」より「零和」になる。
 「和して零になる」といったところであろうか。
  「ゼロになる」、すなわち終焉の時になる。
 よって令和は「残された時」になる。
 平均寿命というのは女性は87歳で男性は81歳だそうである。
 ということは「死に時」は女性は80歳代である。
 男性は「70歳代」になる。
 一般的には80歳を越えての死は「ご長命で」と言われる。
 また60歳代での死は「お若いのに」と表現される。
 中間の「七十歳代が死にどき」ということになる。
 つまり言いたいことは
 「必ず来るであろう死との間隔を計りながら、研ぎ澄まされた感覚で、厚みのある残りを過ごしてみたい」
ということである。
 それが「零和の時代」の有り様、生き様になる、ということである。
   なを「平均寿命」のほかに「健康寿命」というのがあって、男性は72歳、女性は76歳だそうである。
 
 平成をちょっと振り返ってみる。
 メデイアが悪く言う平成の大きな事件はバブル崩壊である。
 1991年ということである。
 平成になってたった2年後のことだからしかたがないのかもしれない。
 バブルが崩壊してもそれが形として巷に現れてくるのはタイムラグがあり2年後3年後になる。
 そのころ、私はオーストラリアでの生活をスタートさせている。
 よって、バブル崩壊による狂乱は日本からのニュースで知ることになるので、肌で味わったことはない。
 日本の経済成長は終焉し、いわゆる「失われた10年」「失われた20年」、最近は「失われた30年」とまで言われる時代へと入っていく。
 何が「失われた」のかというと「高度成長」が失われた、ということである。
 近代経済学は「成長経済学」である。
 後進国が中進国へ、中進国が先進国へと発展していく過程の理論を生み出したのが近代経済学である。
 なら先進国がさらなる経済発展をしたらどうなるのか。
 近代経済学は沈黙する。
 なぜなら、それは近代経済学の分野ではないからである。
 近代化をトレースする経済学である。
 近代化した後は別の経済学の分野になる。
 近代経済学は先進国を生み出すまでの学問である。
 それ以降はないのである。
 近代化後の経済学はまだ生まれていない。
 そこで経済学者ああでもない、こうでもない、とアワを飛ばす。
 そしてノーベル経済学賞が乱発される。
 でもこれが当たらない。
 当然のことである。
 ベースに古い成長経済学がドーンと居座っているからである。
 成長経済学は成長が終わった後の経済を論じる「成熟経済学」へと進まねばならぬのに、あまりにも近代経済学の影響力が強すぎるのである。

 バブル処理に追われた「失われた10年」の次に、日本の立て直しに動いたのが小泉純一郎である。
 バブル処理とは突き詰めれば不動産バブル処理である。
 あらゆる企業が不動産屋をやっていた。
 目先の欲に目が眩んでいた。
 この負債を返すのに10年余の歳月がかかった。
 これはまちがいなく「失われた10年」と言われてしかるべきである。
 小泉純一郎がやったことは不動産バブル処理の後の事、すなわち経済・産業の立て直しのための構造改革である。
 平成13年から18年の5年間、首相を務める。
 彼の口から出た言葉で強く印象に残っているものがある。
 曰く『いまは、国民のだれもが我慢の時である』
 政治家というのは決して「我慢しろ!」とは言わない。
 「私が当選した暁にはバラ色の世界が待っています」
としか言わない。
 それが政治家である。
 でなければ議席は確保できないことになる。
 しかるにこの人、国民に我慢を訴えた稀有な政治家となった。
 バブルが崩壊して「一億総不動産屋」が一気にしぼんだ。
 企業は本来の持ち分の領域へ戻っていった。
 更には事業内容の洗い出して利益拡大を見込めない分野から撤退して、専業業種の絞り込みに入っていく。
 事業の構造改革を推し進め、その結果として特に例に出されるのが「白物家電」からの撤退である。
 典型的な例は松下電器グループである。
 いまのパナソニックである。
 ゴールドコーストのロイヤルパインは松下興産の開発物件であったがこれを処分し、さらには主力の家庭電化品からも撤退をはじめた。
 代わって消費者向けから企業向けの製品群に切り替えている。
 今はこちらが主力となっている。
 この構造改革で日本が撤退した後、その穴を埋める形で入ってきたのが韓国のサムスン電子である。
 サムスンは労せず「ウハウハ」と旧日本製品のマーケットを手にいれる。
 そして曰く「日本の製造業は没落して、失われた時代へ入った」と宣言した。
 サムスンは白物家電、スマーとホンそしてメモリー半導体がメインである。
 日本はスマートホンを白物家電とみなし、これに傾注することはなかった。
 白物家電は最後は人件費の高で価格が決まるモノで、究極は安値戦争へ入っていくという判断をしたからである。
 現在、サムスンの白物家電は中国に追い抜かされ、スマートホンも安物メイドインチャイナによって駆逐されつつあり、残るはメモリ半導体だがこれも背後に中国の影が迫ってきている。
 サムスンは構造改革を行う時期を持つことはなかった。
 このため次の世代に向かっての企業を支えるエンジンになるものが何もない。
 儲けに専念したため次世代技術の集積ができなかった。
 儲け頭が失速するとき、没落して失われた時代に入り、最後は消えていく企業になるかもしれない。

 日本は成長経済から成熟経済へ入っている。
 成熟経済とは成長せずとも己が力で回転する経済のことである。
 だがこの経済に対する学問的セオリーはまだ出ていない。
 成長経済が「所有欲」なら、
 成熟経済の背骨は「モノ離れ」である。
 「断捨離」とか「低欲望社会」とか言われているものがその形になる。
 少なくとも、この2つの現象を的確に包み込める経済学はまだ姿を現していない。
 いまだに経済学者とか経済評論家とかジャーナリストは「モノ所有」を経済行動の原動力と見ている。
 人口減少が経済を崩壊させる、と言っている。
 成熟経済では人口減少はパワーである。
 人間パワーを馬力に換算することで成り立っている成長経済学では明日は見えてこない。
 
 平成時代のもう一つの大きな出来事は地震である。
 平成7年1月に起きたのが阪神淡路大震災 である。
 これは6千4百人を超える死者を出している。

 『

●阪神淡路大震災 発生の瞬間


 このニュースはこちらの報道で知った。
 引っ越して1年9カ月目のことである。
 日本語のニュースはそれから10日ほど経って新聞やビデオなどが郵便で届き始めてからである。
 これではいけないと思い、日本からソニーのFMラジオをとりよせ、午後4時頃にはじまる海外FM放送に耳を傾けることになった。
 その後、SBSテレビで朝の5時にNHKの前夜の9時のニュースを放送するようになり、ビデオ録画して朝起きてから楽しみに見るようになった。
 その後さらに有料で日本のテレビをみられるシステムもできてきた。

 そして、平成23年3月11日にあの1万8千人を越える死者を出した東日本大震災が起こる。
 阪神淡路地震から16年後のことである。
 この16年間の間にインターネットの普及は目覚ましかった。
 デジタルカメラには動画機能が標準装備され、これにより多くの人たちがユーチューブに劇的な一瞬をほぼリアルタイムで配信した。
 これにより恐ろしいの一言につきる動画が’インターネットにあふれ出た。
 呆然とし、何をか言わんやになる。
 ウソだろう、夢だろう、そう思いたくなる数々の惨劇が目の前で展開されたのである。
 



●Tsunami Kesennuma 2011-03-11 (1/2) (2/2) 津波 気仙沼

 
 そしてこのリアルな映像は経済成長といった人間の安易は願望を見事に打ち砕いた。
 人為ではどうすることもできない自然が厳然とあり、それにより「足る以上のつまらぬモノ」の所有は塵芥であり、不安を生む源泉でしかないという「断捨離」と「低欲望社会」に行きついてしまったわけである。
 断捨離は平成22年の流行語になり、低欲望社会は単行本として平成27年に発売された。
 平成は最後に人は不要な欲望を求めるべきではない、という諦念を日本民族に刷り込んだ時代であったのかもしれない。
 成長経済の終焉を見事に見せてくれたのかもしれない。
 知足経済へのゲート下に立っているのかもしれない。
 そしてこれに最も貢献したのは、インターネットというリアルタイム装置であったと思う。
 
 平成の大きな出来事として、「失われた時代」と「大震災」の2つを取り上げた。
 もし3つなら何が入ってくる?
 この問いに、私なら日本の外交姿勢の変換を上げるだろう
 このきっかけになったのは、東日本大震災の翌年の平成24年の中国での反日暴動である。
 当初は中国政府の扇動で行われた官製デモであったが、日ごとに狂暴化して当局の手に負えなくなり、共産党が抑え込みに動くことになった。
 市民が日々のウップンをこの時とばかりに爆発させたのである。
 以後、あらゆるデモは規制されてできなくなった。
 ただ、軍人のデモだけは例外のようである。
 この反日デモで膨大な被害を被った日本政府はこれまでの「お詫びと反省」という外交姿勢を抹消する。
 積極的防衛」というコンセプトに切り替える。
 以降、二度とこれまで当たり前に発っせられていた「お詫びと反省」という言葉は使われたことはない。
 その前年の東日本大震災での活躍で圧倒的な信頼を勝ち得た自衛隊が、国民の中で市民権を獲得したため、この変更はすんなりと日本国民に受け入れられることとなった。
 中国のたゆまぬ軍事拡大、北朝鮮の核実験と日本列島を飛び越えるミサイルの発射、韓国のまるでつじつまの合わない反日姿勢、と日本をとりまく環境は日ごとに危険度が増幅している。
 よって、この「積極的防衛」という政府の姿勢に異議を唱える者がいなくなってしまった。
 「暴力いけません、暴力は!」と叫んでいた連中は空気を読んで口にチャックをして知らん顔になってしまった。
 中国の台湾進攻、尖閣諸島占領、北朝鮮の韓国収奪と懸念材料は多々あるがそれらの根は平成の時代に生まれている。
 
 平成が終わり令和になって、これからどうなるのか、誰にも分らない。
 私にとって
 『平成は良い時代であった!』
 これから世界はさらなる過酷な時代へと入っていくように思える。
 火種はゴロゴロとそこいらじゅうに散らばっている。
 世界は『冷和』の時代へと向かう
 平成を越えるようないい時代がくるとはまったく思えない。
 そんな気分になってくるのが昨今の世界の姿である。



【 2019 残りの時、好きにおやり 】
 


 
【付録】

ダイヤモンドオンライン 2019.5.3 塚崎公義:久留米大学商学部教授
https://diamond.jp/articles/-/200897

令和の日本が平成初期のバブル当時より豊かである理由

 バブル真っ盛りだった平成元年のほうが豊かだった、と思っている人は少なくありませんが、実際には今のほうが日本人の暮らしは豊かになっています。
 新しい時代が始まった。
 まずは、新しい時代の到来を祝おう。
 今回は、読者が明るい気持ちで新時代を祝えるように、明るい内容の寄稿をしたので、これを読んで明るい気分になっていただければ幸いである。

 まずは、拙稿を読んで、令和元年の日本経済がバブル最盛期であった平成元年の日本経済より豊かであることを認識しよう。
 平成時代の日本経済というと、「長期停滞」のイメージしかないが、それでも経済は成長し、日本人の生活は豊かになったのだ。

■実質GDPは年平均1.3%成長

 平成時代というとゼロ成長のイメージが強いが、実際に統計を見てみると、年平均1.3%の成長を見せている。
 30年間で4割も実質GDPが増えているわけだ。
 一方で、人口はおおむね同水準であるから、1人当たりで見てもGDPは増えていることになる。
 つまり、我々の生活は当時より豊かなのである。
 当時は、夜中まで飲んで、タクシーがつかまらないのでもう1軒ハシゴした、という経験をした人も多いだろうし、大企業の独身寮には駐車場に高級車が並んでいたし、とにかく皆がぜいたくをしていた印象が強いが、統計を見る限り、今の方が豊かに暮らしているわけだ。
 その理由について考えてみよう。

■スマホは当時100万円の機器より素晴らしい

 スマートフォンは、今では子どもでも持っているが、バブル期にこれと同じものを買おうとしたら、想像もつかないほどの資金が必要だったはずだ。
 そもそも当時は存在しなかった技術も多い。
 まず、携帯電話は非常に高価で大きくて重かったので、マスコミの記者が事件現場に取材に行くときに持ち歩く程度の商品だった。
 それ以外には持ち歩く人はおらず、自動車に積んで、社長が移動中に通話をするのに使うくらいだったと思う。
 カメラとしても、音楽プレーヤーとしても、おそらく当時の高級な機器と同等の性能を今のスマホは持っているだろう。
 スマホで遊べるゲームは、当時のゲームよりはるかに質が高い。

 そして、当時は一般的な人はまだ使用できていなかったインターネットによって、今では新聞や本などに載っている情報が無料で得られるようになった。
 読者は拙稿を無料で読んでいるが、バブル当時であれば市販の雑誌に掲載された拙稿を読むために雑誌を購入する必要があったわけだ。
 当時はファックスや郵便を送る必要があったが、今ならメールで済むケースも多い。
 このように、技術の進歩によって良いものが安く手に入るようになったので、当時と比べて給料が増えていなくても、豊かに暮らせるようになっているのである。

■道路も鉄道も増えタワマンも建った

 道路の建設は、建設された時点のGDPに公共投資として載るが、それ以降は載らない。
 したがって、バブルが崩壊してから巨額の公共投資が行われ、多くの道路が造られ、我々はそれらを自由に使えているが、それは上記のGDPの計算には入っていない。
 要するに、GDPが増えた分以上に我々は豊かに暮らしている、ということだ。
 鉄道網も整備された。
 従来であればバスや電車を乗り継がなければ行けなかったところへ、簡単に行けるようになった。
 そして、都心のタワーマンションに住んでいる人も多い。
 バブル期に最初のタワーマンションが売り出された時は、庶民には全く無縁のものであったが、その後、都心の地価が大幅に値下がりし、タワーマンションの建設技術の進歩もあって、今では庶民でも共働きであれば、手が届くかもしれないところまできている。

■見栄を張らない文化も、実質的な豊かさに

 バブル当時は、男性がで無理をして高級乗用車を買って彼女をドライブに連れていき、高級レストランで食事をする、というのが典型的なデートであった。
 今ではアパートで2人、コンビニ弁当を食べながらゲームをするのが典型的なデートなのかもしれない。
 どちらも幸福度が同じなのだとすれば、同じ給料でも今の方がはるかに豊かに暮らしていることになるだろう。
 デート以外のことに給料を使えるのだから。
 当時は、新品を買うのが普通だったが、今では中古品を買うことに抵抗を感じない人が多いようだ。
 中古品の個人間売買もインターネットにより容易になった。
 それによって、安い費用で従来と同様の生活をすることができるようになったわけだ。
 これも、以前と同じ給料で以前より豊かに暮らせている一因だろう。

■ネット、スマホなどの「便利さ」も豊かさ

 インターネットがなかった時代のことを想像してみよう。
 レポートを書く時には図書館へ行って調べ物をする。
 レストランを探すには、友人知人にレストランの情報を聞く。
 どこかへ行くときには時刻表を見る。
 飲み会の日程調整は、メンバー全員に順番に電話をかける。
 今ならメールで「全員に返信」を頼めばいいだけなのに。
 携帯電話を持てなかった時代を想像してみよう。
 待ち合わせに遅れそうでも、相手に連絡する手段がない。
 駅の東口と西口の改札でお互いがイライラしながら相手を待ち続けることもあったはずだ。
 こうした点から考えても、我々が当時よりはるかに便利な生活をしているとわかる。
 当時はお金を出しても買えなかったサービスが安価に手に入るのも「豊かに暮らしている」ことに違いない。

■バブル期より豊さを実感できないのは気分の問題も

 このように、日本人の生活はバブル当時よりもはるかに豊かで便利なのだが、それが実感できていないのは、当時を想像できない、忘れてしまったのも大きいだろう。
 当時は「インターネットがなくて不便だ」と感じていたわけではないので、当時が不便だったことが記憶として残っていないのだろう。
 賃金が上がっていないことも一因かもしれない。
 当時より少しだけ安い給料で、当時よりはるかに安く生活できているとしても、豊かになったと感じにくいのかもしれない。
 格差が拡大しているといわれている。
 平均的な日本人は当時より豊かであったとしても、個々人の生活レベルからすれば上がっているとは感じられない可能性もある。
 あるいは、他者との比較で自分を貧しいと感じてしまうケースもあるだろう。
 友人がスマホを持っているのに自分だけスマホが買えなかったら、「自分は貧しいから質素に暮らしている」と感じる。
 実際にはバブル期の普通の日本人より豊かに暮らしているとしても、だ。

 このように、当時より豊かであることを実感できない理由は多数あるようだが、客観的に自分の生活がバブル期より豊かである事実をしっかり認識し、少しでも明るい気分で新しい時代を迎えられれば、素晴らしいことだろう。

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2019年4月24日水曜日

GC「ハーフマラソン」エントリー:1.5キロでリタイヤ

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● ハーフマラソンのエントリー

 4月最後の21km走の予定であったが、なんと1キロ半でリタイヤである。
 どうにも体の具合がすぐれない。
 ときどきこういうことが起こる。
 老年性慢性疲労が突然表面化して、体が動かなくなる。
 今日は散歩に出る気にもならなかった。
 回復がいつになるかわからないが、できれば土曜日にゆっくりと15kmでも走りたいと思っているのだが。
 もしそれができないなら今週は休みということになる。
 週一回のランニングなので1回休むと2週間の休養ということになる。
 
 ゲン直しにシューズの補修をやり替えを行った。
 左右とも貼ってあったステッカーならびにテープを丸ごとはがして、新しいのに交換する。
 底地のステッカーを新品に換えてテープを巻き、その上に上張ステッカーを貼り付けた。
 これまで、底地、中段、上張の3枚重ねであったが、今回は2枚で補修した。
 

● 底地・上張の2枚補修とする。

 また、左足つま先が擦り切れてきたので、これも補修する。
 といってもステッカーを1枚貼っただけであるが。
 つま先がぶ厚くなると、そこが路面に引っかかって転ぶ可能性が大きくなるように思うのだが、どうだろうか。
 こればかりは実際に走ってみないとわからない。
 つま先の摺り足は老年性転倒の最大原因である。
 「転ばないシューズ」としてベアフットを選択しているので、不用意にそれを阻害することになってしまっては元も子もない。
 
● 左足つま先にステッカー1枚を貼りつける

  6月の4週目と7月の1週目、そして本番のハーフマラソンのこの3回は、おnewのシューズで走る予定でいる。
 そのためには、6月3週目までは、このシューズを使いたい。
 今週走れなかった場合は、5月が5週、6月が3週となり8回21kmを走ることになる。
 距離的には約170kmである。
 現在の状態なら補修しながらの170kmは十分に可能だと思っているのだが。


【ハーフマラソン エントリー】
 ゴールドコーストマラソンのハーフマラソン部門へのエントリーが終わった。
 参加料は120ドルであるが、アーリーバード(早期申込割引)と老齢者割引で合わせて10ドル安くなり、110ドルである。
 これにカード料金をとられるので、もう少々高くなる。
 これであとは走り込みを残すのみとなった。
 昨年はキッドシューズでキロ6分を切ったので、今年はベアフット・シューズでどこまで走れるものなのかを試してみたい。
 いまのところの目標は「サブテン」で2時間10分以内(キロ6分10秒)なのであるが。
 

【NICHIGO PRESS  6月号



設楽悠太が出るって!

ゴールドコーストマラソン2019 2019.05.05
結果速報・設楽悠太出場
https://zutto-sports.com/gold-coast-marathon2019

オーストラリアにて、第41回ゴールドコーストマラソン2019(Gold Coast Marathon・IAAF Gold Label)が開催されます。
今大会にはマラソン前日本記録保持者の設楽悠太選手とカリスマ川内優輝選手が出場します。

❖出場選手
設楽悠太 ホンダ
川内優輝 あいおいニッセイ同和損保

❖優勝賞金
1豪ドル=80円、優勝賞金1,600,000円です。

1st AU$20,000
2nd $8,000
3rd $5,000
4th $2,500
5th $1,000

❖去年2018年の結果
 02:09:49 KENNETH MBURU MUNGARA
 02:09:50 村山謙太(旭化成)
 02:09:52 福田穣(西鉄)
 02:10:15 野口拓也(コニカミノルタ)
 02:11:44 PHILIP KIMUTAI SANGA
 02:11:45 高久龍(ヤクルト)
 02:12:56 MICHAEL MUGO GITHAE
 02:13:48 山崎翔太(ヤクルト)
 02:14:51 川内優輝(埼玉県庁)
 02:15:15 口町亮(SUBARU)


【日本人招待選手】
 こちらは公式ブログである。
 これには設楽悠太の名はない。

ゴールドコーストマラソン日本事務局ブログ 2016年06月16日
http://blog.livedoor.jp/gcmarathon/archives/52137373.html

【お知らせ】日本人招待選手が今年は最多の12名!

ゴールドコーストマラソンには、毎年日本からも有力なランナーが招待選手として出場しています。
今年も公務員ランナー、川内優輝選手が5度目の挑戦をします。

今年は川内選手はじめ、12名もの日本人招待選手が参加、レースを盛り上げてくれると、期待されています。

ゴールドコーストマラソンは、エリート選手とすぐ近くですれ違うこともコースの魅力。是非、熱いエールを送ってください!

日本人招待選手は次の通りです。(敬称略)

【男性】
川内 優輝/ 藤原 新/ 高田 千春/ 濱崎 達規/ 高瀬 無量/ 牧野 冴希

【女性】
渋井 陽子/ 堀江 美里/ 新宅 里香/ 中村 仁美/ 石橋 早希江/ 杉谷 優衣





【公式サイトに設楽悠太はリストされている!
 ゴールドコースト・マラソンの公式サイトの「Elite」の欄を見ると設楽悠太はリストされている。
 ここに載っている名前は日本のサイトのものとは大幅に異なっている。
 共通しているのは川内優輝と牧野 冴希の二人のみである。
 果たして本当に設楽悠太は走るのだろうか?

Gold Coast Marathon – Men’s Elite Field
https://goldcoastmarathon.com.au/race-weekend/elites/

Kenneth Mungara KEN 2:07:36 (Prague, 2011) 
Ezekiel Chebii KEN 2:06:07 (Amsterdam, 2016)
Philip Sanga KEN 2:06:07 (Frankfurt, 2011) 
Douglas Chebii KEN 2:08:43 (Seville, 2018)
Barnabas Kiptum KEN 2:09:19 (Buenos Aires, 2018)

Brimin Misoi KEN 2:09:31 (Vienna, 2019)
Noah Kigen  KEN 2:12:03 (Vienna, 2018)
Mike Chesire  KEN  1:03:04 Half (Hawaii, 2019)

Yuta Shitara JPN 2:06:11 (Tokyo, 2018)
Yuki Kawauchi JPN 2:08:14 (Seoul, 2013)
Hiroki Sugawa JPN 2:11:46 (Nobeoka, 2019)
Takahiro Gunji JPN 2:12:55 (Nobeoka, 2019)
Yuki Munakata JPN 2:13:47 (Tokyo, 2019)
Saeki Makino  JPN 2:14:36 (Seoul, 2019)
Shin Kimura  JPN 2:15:04 (Lake Biwa, 2019)
Sora Tsukada  JPN 2:15:16 (Osaka, 2016)

Bernard Lagat  USA 2:17:20 (New York, 2018)
Thomas Frazer IRE 2:17:34 (Lake Biwa, 2017)








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2019年4月22日月曜日

ディンゴ:ディンゴは犬か?それとも?

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 ゴールドコーストでもデインゴは見られる。
 カランビン近くの「デイビット・フリーイー ワイルドライフ・パーク David Fleay Wildlife Park」というところで飼育されている。
 周囲は高いネットで囲まれた一隅にいる。


● google画像より

一見、やはり犬である。
 これがオオカミより怖いとは思えないのだが。
 ちなみに、このワイルドライフ・パークではコアラも抱ける。


4/21(日) 20:23配信 AFP=時事
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190421-00000026-jij_afp-int

豪フレーザー島でディンゴが相次ぎ人襲う、
緊急に管理体制見直しへ


●豪ビクトリア州にあるディンゴ研究施設が飼育するディンゴ(2009年5月25日撮影、資料写真)。【翻訳編集】 AFPBB News

【AFP=時事】オーストラリア・クイーンズランド(Queensland)州政府は21日、観光客に人気のフレーザー島(Fraser Island)で今年に入ってから野生犬のディンゴに観光客が襲われる事態が相次いでいることから、緊急に同島のディンゴ管理体制を見直すと発表した。

【写真】オーストラリア固有の動物、ディンゴ
https://www.afpbb.com/articles/-/2616834?tmpl_skin=gallery&utm_source=yahoo&utm_medium=news&cx_from=yahoo&cx_position=p1&cx_rss=afp&cx_id=3221825

 クイーンズランド州東部沖のフレーザー島では3日前、1歳2か月の男児がディンゴにくわえられてキャンピングカーから引きずり出されるところを、父親に救出される事件が起きたばかり。
 男児の両親が豪公共放送ABCに語ったところによると、男児は頭蓋骨を折った上、頭と首に複数のかみ傷を負った。

 こうした事態を受けて、クイーンズランドのリーアン・イーノック(Leeanne Enoch)州環境相は21日、フレーザー島のディンゴ管理体制の見直しを推し進めると発表。
 「クガリ(K'gari、先住民アボリジニの言葉でフレーザー島のこと)におけるディンゴの管理は複雑な問題だ」とした上で、州政府はディンゴの個体数を持続的かつ健全に維持するとともに、人間の安全に対するリスクを最小限に留めてディンゴを保護する役目を担っていると語った。

 具体的な対策としては、島内を巡回するレンジャーを増員し、観光客にも、より積極的にディンゴの危険性を周知していくという。

【翻訳編集】 AFPBB News



AFPBBニュース 2019年3月6日 22:52 シドニー/オーストラリア
https://www.afpbb.com/articles/-/3214523?utm_source=yahoo&utm_medium=news&cx_from=yahoo&cx_position=r1&cx_rss=afp&cx_id=3221825

ディンゴは犬ではなく独自の種、
豪研究者らが保全策の見直し求める


●ディンゴ。豪ビクトリア州にて(2009年5月25日撮影、資料写真)。(c)WILLIAM WEST / AFP

【3月6日 AFP】オーストラリアの複数の大学の研究者が、ディンゴは犬の仲間ではなく独自の種だとして、保全策についての見直しを求めた。

 研究者ら20人は生物分類学の国際学術誌「Zootaxa」で5日に発表された論文で、ディンゴにはイエイヌや野生化した犬とは異なる多くの特徴があり、オオカミやキツネが属するイヌ科の他の野生動物とも違うと主張。
 1000年以上にわたり、オーストラリアという地理的に隔絶された環境に生息し、家畜化された痕跡もないことから、ディンゴを犬とする「証拠はほとんどない」と結論付けた。

 セントラルクイーンズランド大学(Central Queensland University)のブラッドリー・スミス(Bradley Smith)氏は声明で「ディンゴがオーストラリアへ到達して以来、家畜化されたという歴史的証拠はなく、それ以前の家畜化の度合いについては不明だが、可能性は低い」と述べている。

 ディンゴの分類はこれまでも科学界で論争を巻き起こしてきた。
 オーストラリア博物館(Australian Museum)ではディンゴを「野生犬」とみなしており、約4000年前にアジアから人間と一緒にオーストラリアへ渡来したと推測している。

 ディンゴをどう位置付けるかによって、オーストラリア各地では対処に食い違いが生じている。
 多くの人々は、ディンゴは人間が飼育している動物や家畜にとって脅威だと考えているが、野良猫やキツネなど害獣とみなされる動物を抑えることにディンゴが役立っているという主張もある。

 一方、ディンゴの抑制策は野犬の管理事業と一緒に行われることが多いが、州ごとに異なり、一部の地域ではディンゴを捕獲し殺すことも認められている。

 今回、研究者らはディンゴを犬ではないと主張し、政府はオーストラリアの固有種と認め、保護政策を拡大させるべきだと訴えている。

 なお、ディンゴが人を襲うことはまれだが、同国北東部クイーンズランド(Queensland)州沖にある観光地、フレーザー島(Fraser Island)では過去何年かの間に数件の事故が起きている。
 今年も1月に同島で6歳の男児が襲われた他、2月末にもフランス人観光客の母子がディンゴの群れに襲われ、治療を受けた。



【参照】

AFPBBニュース 2017年1月10日 17:07 シドニー/オーストラリア https://www.afpbb.com/articles/-/3113617?utm_source=yahoo&utm_medium=news&cx_from=yahoo&cx_position=r2&cx_rss=afp&cx_id=3221825

野生犬ディンゴが娘を連れ去り
…無実の罪きせられた父が死去

【1月10日 AFP】1980年にオーストラリアの観光名所である巨大な一枚岩ウルル(Uluru、エアーズロック、Ayers Rock)で、当時生後9週間の娘を野生犬に連れ去られたことで世間の注目を集めたマイケル・チェンバレン(Michael Chamberlain)さん(72)が死去した。
 マイケルさんの家族が10日、発表した。

 報道によると、マイケルさんは急性白血病による合併症を患い、亡くなった。
 元妻のリンディ(Lindy Chamberlain)さんは報道陣に対し、マイケルさん家族への配慮を求める声明を発表した。

 1980年に夫婦だったマイケルさんとリンディさんがウルル近くでキャンプをしていた際、娘のアザリア(Azaria Chamberlain)ちゃんがテントからいなくなり、行方不明となった。
 リンディさんは一貫して、ディンゴ(オーストラリアに生息する野生の犬)が娘を連れ去ったと主張していたが、殺人罪で有罪となり服役した。

 マイケルさんも共犯の罪で執行猶予付きの有罪判決を受け、以降数十年にわたって妻と自らの無実を訴えた。

 1988年になってディンゴの巣の近くでアザリアちゃんの衣服の切れ端が見つかったことで、2人に対する有罪判決は覆され、2012年には野生犬がアザリアちゃんを連れ去ったとする正式な検視結果が下された。

 この事件は1998年、米女優のメリル・ストリープ(Meryl Streep)さんと英国出身の俳優サム・ニール(Sam Neill)さん主演で『ア・クライ・イン・ザ・ダーク(A Cry in the Dark)』というタイトルで映画化され、その後書籍やテレビシリーズ、さらにはオペラの題材としても取り上げられ、世界中で大きな注目を集めた。

 ニールさんはマイケルさんの死にあたり、ツイッター(Twitter)で「つらい試練と幾年にもわたる不当な扱いを終始受けながら、心に秘めた威厳を保ち続けた」と追悼のメッセージを送った。
(c)AFP

2019年4月17日水曜日

21 km走:2時間23分03秒 キロ6分49秒 ベアフットでダウンせずに21キロ

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ランニングの前夜は緊張するもので、ああでもないこうでもないといろいろ考えるものである。
 朝起きるとたいしたことなくても体調が良くないので今日は走るのやめようかな、とも思う。
 でも今回はそういうことが全くなかった。
 緊張感がまるでなく、なにかいつものルーチンワークをこなすみたいなもので、高揚感といったものが沸き上がってこない。
 平準レベルにコチコチに凍り付いてしまったような感じである。
 気温は下がってきており、朝陽も緩んできている。
 でも風は相変わらずで南風である。
 この時期は南風になる場合が多い。
 後半の内海沿いは前回と同じくきつくなりそうである。
 前回はベアフットで21km走ったが、19キロでダウンして休んでしまった。
 今回は後半ダウンすることなく21kmを走り切るというのが目標になる。
 もちろん、キロ7分切りは最低線である。
 
 10kmでキロ7分弱、5秒ほどの貯金となる。
 前回よりは1分24秒速い。
 後半は体が慣れてくるので、タイムは上がりやすくなる。
 10キロを過ぎたあたりから左足がペタペタする。
 テープが擦り切れ、ステッカーがばたついているのである。
 11キロで止まって、持ってきたテープで補修する。
 しかしこれはすぐに剥がれてしまい、12キロでステッカーそれ自体をはがしてしまう。
 よってステッカーは底地と中段の2枚になり、中段が表層のステッカーとなる。
 
 15kmまでの5キロはキロ6分半を狙ったがダメであった。
 20kmまでの5キロは向かい風部分が多くなるので、ガタンと遅くなる。
 17キロ手前あたりから今度は右足のステッカーがペタペタし始めた。
 17キロで右のステッカーもはがしてしまう。
 これで両足ともステッカーは2枚となる。

 20kmもそこそこいった。
 ラストの1キロは前回より強い風である。
 前傾を強くしてようようにゴールにたどりつく。
  
 後半ダウンすることなく21kmを走り切れた。
 4月のトレーニング目標はベアフットで21kmを必ず走り切れるようにすることであるから、少しずつでもその方向に進んでいる。

【 4月17日 21km  2時間23分03秒 キロ6分49秒 ベアフット
5km    35:41      35:41 
10km    34:14    1:09:55
15km    32:40    1:42:35
20km    33:14    2:15:49
21km     7:14    2:23:03

【 4月10日 21km  2時間26分31秒 キロ6分59秒 ベアフット
5km    36:00      36:00 
10km    35:19    1:11:19
15km    33:52    1:45:11
20km    34:22    2:19:33
21km     6:58    2:26:31
 
● 計166kmである。カカトは中段ステッカーが見えている状態。









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2019年4月14日日曜日

大腸ガン検診:死に時はいつ?

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● 初めに送られてくる大腸ガン検診の案内

 隔年で大腸ガン検診のキットが送られてくる。
 無料である。
 初めに案内がきて、その後にキットが送られてくる。
 22カ国語が載っているが、日本語はない。
 つまりさほどに日本人の老年層はオーストラリアに住んでいないということであろう。


● キットの鏡紙と裏に印刷されている言語 

 検診は検便で、サンプル2個を送ると検査結果として、陽性か陰性かの通知がくる。
 キットはサンプル体2ケ、トイレシート、サンプル保存袋、それに返信封筒よりなる。
 ほかにチェックリストがあり、サンプルと書き込んだリストを送ることになる。






 検便方法であるがこれまで数回のものとは段取りが異なっている。
 これまではサンプル1を採ってから、数日たってサンプル2を採っていた。
 おそらくこのどちらもがネガテイブなら陰性判断がなされるのであろう。
 今回はサンプル1を採ってから、その日に、あるいは翌日に、または至近の日にサンプル2を採るように変わっている。
 解析方法の精度が変わったのか、あるいは別々の結果が出たときの判断に苦しむことのないようにか、この辺のところはよくわからない。
 無償で行われるのは65歳から74歳までとある。
 ということは、これが最後になりそうである。

 検診方法のガイドをコピーしておこう。





  ガンは日本人の死亡原因のベスト3に入る。
 精密検査を受けたことはないのでくわしくはわからないが、前立腺ガンかもしれない以外のガンの症状はない。
 姉は60歳代にガンで亡くなった。
 よって、私もガンになりやすいかもしれないという思いはある。
 でももう70歳代に入ったら何で何時死のうと、「死に時に死ぬだけ」のことで、どうこういうことでもない。
 八十を超えてまで「生にしがみつきたい」とは、なかなか思いにくい。
 前立腺ガンは男性の老人病であるが、死に至る病ではない。
 下手に手術をうけると、その後の方が大変だと聞く。
 齢をとればいろいろな病が出てくる。
 夜中に数回お手洗いにいかねばならないといった、ちょっとした辛さは十分に耐えうるものである。
 夜寝られなかったら昼間寝ればいい。
 人間の体は決して睡眠不足にはならないようにできている。
 一時、その状態になっても体が自動的に休みをとるように機能してくれる。
 日本なら冬場の真夜中のお手洗いはきついだろう。
 でもここオーストラリアではそんなこともない。
 ありがたいことである。
 ちなみに、こちらにきて四半世紀がたつが健康診断や人間ドックなどのお世話になったことはない。
 日本にいたときは40代で今よりはるかに若かったのに人間ドックに2回かかっている。
 

【結果 ネガテイブ】
 検査結果が送られてきた。
 ネガテイブ(陰性)であった。


【参考】

5/10(金) 12:14配信 読売新聞(ヨミドクター)石井洋介 
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190510-00010000-yomidr-sctch

水洗化で感染症減も、見逃しやすくなった「大腸がんの兆候」

■うんこで救える命がある

 北里柴三郎が新千円札の肖像画になるみたいですね。
 現在の千円札に描かれている野口英世と、北里の共通点をご存じでしょうか。
 北里は19世紀後半、破傷風の血清療法の確立やペスト菌の発見で活躍、野口は20世紀に入り黄熱病の研究に尽力しました。
 2人は、菌やウイルスによって起こる病気と戦った偉大な感染症の研究者であり、野口が北里の研究所に助手として入り、実質の弟子となりました。

 当時、世界では感染症をどう予防、治療するかが大きな課題でした。
 そして、感染症とうんこは切っても切れない関係にあります。
 特に、うんこを介して感染が広がるコレラは19世紀、イギリスをはじめ世界各国で大流行し、人々を恐れさせました。
 下痢症状を起こし、死にも至るためです。
 近代化と都市化が進む中で、人々が都市部に集中し、うんこを適切に処理しきれなくなったこともあり、コレラの流行につながりました。

 日本では海外との交易が盛んになった明治時代に入り、コレラは流行しました。
 10万人以上が死亡した年もあります。
 その後は、結核菌が原因の結核患者が増え、毎年10万人前後が亡くなりました。
 昭和時代前半までは感染症が猛威をふるいました。

 世界的に、うんこは感染を広げる要因の一つとして隔離される対象になりました。
 上下水道を完備する中でコレラによる死亡は減少しました。
 研究者たちの努力で抗生物質やワクチンが開発され、感染症によって命を落とす人は劇的に減りました。


●水洗化で感染症減も、見逃しやすくなった「大腸がんの兆候」
病の「主役」は、感染症から、がん・脳血管疾患・心疾患へ移行

■入れ替わる病の「主役」

 感染症にかわって、現代は、がん、脳梗塞や脳出血などの脳血管疾患、心筋梗塞や狭心症などの心疾患、という、細胞や血管の老化によって引き起こされる病気が3大死因を占めるようになりました。
 現代の代表的な病気と、かつて脅威だった感染症との大きな違いは、発病の初期に症状が表れるかどうかではないでしょうか。
 感染症は、咳(せき)、熱、下痢など様々な症状が出るため、本人が病気になったと自覚しやすいものです。
 これに対し、がん細胞が体の中に生まれても、すぐに気付くのは難しいものです。
 例えば大腸がんは、日常生活を送る中で静かに進行し、なかなか症状が出ないといわれています。
 「Silent Killer(サイレントキラー)」と呼ばれるゆえんです。

 高血圧もほとんど症状が表れません。
 測定しなければ自分が高血圧であると気付かないままの状態が続きます。
 治療せずに過ごしていると、脳梗塞や心筋梗塞による死のリスクが高まるとされています。

■病気を自覚しにくい時代到来

 発病初期に症状が出にくい病気が多くなり、「病気であると自覚しにくい時代」が到来したといえます。
 本人が発病を自覚していなければ、病院や診療所を受診しないため、そもそも治療を始められません。
 健康診断などで病気が見つかり、医師が「治療を始めたほうがいい」と説明しても、本人に自覚症状がないと、仕事を休んでまで病院に行こうという気持ちが湧かないのもよく分かります。
 「どうすれば症状が軽いうちに受診をしてくれるか」
 「処方する薬をどうすればきちんと飲んでもらえるか」。
 病気を早く見つけて治療を始めてもらう方法や、治療を続けてもらう方法を日々考えています。
 人々がやる気を起こし、行動を変える「行動変容」の視点を僕は重視しています。
 人の感情に作用して人の行動を変える催眠術のような処方は存在しません。
 行動を変えるのは患者さん本人なのです。
 少し前までは僕ら医師が患者さんに治療の方向性を一方的に示し、治していました。
 でも今は、医師と患者が「一緒に治す」時代にシフトしてきていると思います。
 ベストな治療は、皆さんの協力なしには提供できないと考えています。

■じっくりうんこの観察を

 ここで、感染源として隔離されたうんこに再び注目したいと思います。
 サイレントキラーと呼ばれる大腸がんですが、血便が出る、下痢と便秘を繰り返す、便がだんだん細くなる、残便感がある、というような症状が他の症状に比べて比較的早い段階で出ることがあります。
 いずれもうんこをじっくり観察していなければ異変に気が付きません。
 うんこは、トイレで自動的に流されてしまうほどに嫌われる存在になってしまいました。
 ですが、皆さんが気にする習慣を持つことで、もしかしたら大腸がんの症状を自覚できる瞬間があるのではないかと考えています。
 また40歳以上の方であれば年に1度の大腸がん検診が推奨されています。
 うんこの変化が出るさらに前の段階で引っかかる可能性もあるため、こちらも併せて覚えておいてください。

 どんな変化も小さな一歩から始まります。
 試しに今日から便を観察する「観便」を始めてみませんか? 
 観便ができるようになったら、次は毎日のウォーキングというように、段階を踏んで、健康な人生を送るための小さな小さな行動変容を起こすきっかけになれば幸いです。

石井洋介(いしい・ようすけ) 医師、日本うんこ学会会長



「見つかりにくい」大腸がん特集…こんな症状には注意
https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20151001-OYTEW52646/?from=yh



東洋経済オンライン 2019/05/19 6:20 奥 真也 : 医学博士
https://toyokeizai.net/articles/-/280419

令和時代、人は「死」を意識しないようになる
「誤診」をなくすことが最大の課題だが…


ロケット級の進歩を遂げつつある医療。iPS細胞を利用して臓器をつくり出す再生医療や、AI医師の登場だけではなく、診断、手術、創薬、医療機器、救命救急、予防……。
このまま医学が完成していけば、死の脅威をもたらす病気はほとんどすべて姿を消し、病気では人が死なない「不死時代」が到来すると、医学博士の奥真也氏は著書『Die革命――医療完成時代の生き方』で述べている。
いずれ訪れる「不死時代」とはどのような未来なのだろうか。

■がんを完封する時代がやってくる

 平穏にすごしていた日々に、突然割って入るがん患者としての生活。幸せの絶頂の裏に忍び寄る糖尿病の影……。
 病気によって人生の予定が狂わされた経験を持つ方はたくさんいらっしゃるでしょう。でも、その状況は大きく変わろうとしています。
 1981年に世界で初めて発見されたといわれるエイズは、当初は手の施しようがなく、絶望的な病気と思われていました。
 しかし、2000年を過ぎたあたりからHIVウイルスの働きを阻害するさまざまな薬が実用化されはじめ、現在では生命を奪う病気ではなくなっています。
 エイズの薬のように派手に報道をにぎわせるものもあれば、目立たない進歩を遂げる薬もまた多くあるため、あまり実感がないかもしれませんが、成果を上げている例としては、タミフル、イナビルなど抗ウイルス薬によるインフルエンザに対する強力な治療効果などもそうでしょう。
 1回飲むだけでウイルスの増殖を抑えられるゾフルーザという進化した薬も世に出ました。

 人類にとって最大の病魔の1つと言われているがんも例外ではありません。
 胃がんや大腸がんは、不治の病のリストから消えつつあります。
 乳がんや肺がんもそうです。
 がんの克服は確実に進んでいます。

 2018年には、光免疫療法と呼ばれるがんの標的療法と、近赤外線による光化学反応を組み合わせた新しいがん治療の治験が日本でも開始されています。
 また、がん細胞に感染し、溶解させてしまうウイルスを使った薬は、数社が治験の先陣争いをしており、ほどなく世に出てきます。
 まさに今、がん治療の地図は大きく塗り替えられようとしているのです。

 人類と病気との闘いについて話してきましたが、そもそも、いったいどうなれば、「病気に勝った」ことになるのでしょうか。
 ほとんどの方は風邪やインフルエンザなどの「治る病気」を思い浮かべ、病気とは治療をすれば治るものだ、とイメージしていると思います。
 しかし残念ながら、病気の9割は治りません
 医療の立場から言えば、必ずしも病気は治らなくてもかまわないのです。
 「たいていの病気は治癒しない」し、「治癒する必要はない」というのが医師の感覚です。
 ほぼすべてのがん患者は、おそらく風邪などと同じように「がんが完治する」ことを期待していると思いますが、多くのがんは、「治療」はできても「完治」はしません。
 医者の立場からすると、「今よりも悪くならないようにはできるが、完治するとは言い切れない」と捉えています。
 つまり、病気の9割は、医者にとってつねに「病気」というステータスにあります。
 完全に治癒しなくても日々の生活に支障がなければよい。
 医療はそこを目指しているのです。

■誰もが「多病息災」で生きていく

 ある病気と一生つきあうことになったとしても、その病気が牙をむき、身体に不具合を生じさせたり生命を脅かしたりしなければ困るわけではありません。
 この「ある病気とともに生きる」ことを一病息災といいます。
 では、一病息災は不死時代にどう発展するのかというと、その姿は、「多病息災」であると思います。
 つまり、1つだけではなく、さまざまな病的な状態を持ちつつ、これらがどれも生命を脅かすことなく、生命との間に均衡を保っている状態。
 どの病気も、宿主である人間を殺してしまうところにまでは到達しないということです。
 多病息災時代においては、つねに自らの中にいくつかの病的な状況があることを理解しなくてはいけません。
 それこそが人間の普通の状態なのだから、何も気に「病む」こともないのです。
 ただただ自然にそれを受容していればよく、多病がゆえに死ぬことなどないのです。

 さて、「不死時代」到来の大きな立役者は、やはりテクノロジーです。
 テクノロジーによる医療の進化が近年はより本格化しています。
 象徴的なのは、ロボットの導入です。
 例えば、1990年代にアメリカで開発された手術支援ロボットの「ダヴィンチ(da Vinci)」。
 現時点ではまだAI(人工知能)が搭載されているわけではありませんから、ロボットといっても人間が操作する機械にすぎません。
 でも、ここにはイノベーションともいうべき、かつてはなかった進化が起こっています。
 たとえ話ですが、身体の硬い人が自分の肩甲骨を手で触るのは簡単なことではありません。
 同じようなことが外科手術にもあって、膵臓の裏側にある血管の縫合などは、大きく開腹したうえでほかの臓器の間をかき分け、そこまで手指をくぐらせて作業しなくてはならず、人間には困難な手術です。
 でもロボットならば、人間の腕や手では不可能な角度からアクセスすることができ、うまく施術できます。
 切除の精度に関してもそうです。
 1ミリ幅の切除は、人間なら「神業」ですが、ロボットを使えばさらにその10分の1の幅でも安定して高い精度で切除できます。
 よくニュースなどでは「ロボットが人間の代わりを務める」という表現が使われますが、少なくとも医療の場合は単純な代役ではありません。
 人間には到底できなかった水準のことをやってくれるのが医療におけるロボットなのです。

■AI診断が人間を凌駕する

 私たちはこれから、医療イノベーションの収穫期に入っていきます。
 ビッグデータの活用で創薬のプロセスが大きく変わったり、外科手術にロボットが導入されたりと、治療の方法論は大きな前進を遂げつつあります。
 しかし、いくら治療の方法論が完成されても、そもそもの「見立て」が違っていたら克服できるものもできなくなります。
 医療の完成ということを考えると、あらゆる医療行為の出発点ともいえる「診断」において誤診をなくすことが最大の課題なのは言うまでもありません。
 それにはどうすればいいのか。
 解決策として、最も有力視されているのがAIの導入です。
 2000年代に突入してコンピューターの計算性能がぐっと上がってきたことに加え、人間の脳神経回路をモデルにした多層構造アルゴリズムを用いて、着目すべき特徴や組み合わせをAI自ら考えて決定する「ディープラーニング(深層学習)」の技術が長足の進歩を遂げたことが重なって、AIが人間を凌駕する時代がやってきてしまいました。
 それは医療AIについても例外ではありません。
 医師の「診察」「問診」はAIが十分に代替できる、ということです。
 というのも、AIは人間のように思い込みで病気を見逃すことはありません。
 疲労による判断ミスもない。
 むしろ、安定的に正確な診断ができます。
 つまり誤診率をかぎりなくゼロに近づけることができるのです。



現代ビジネス 2019.06.16 「週刊現代」2019年5月25日号より
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64920

大腸、肺、胃…がん経験者が語る「こんな思わぬ前兆がありました」
こんなサインが現れたら要注意

■ただの痔だと思っていた

 平成が終わる直前の4月29日。
 高橋尚子さんや有森裕子さんを五輪メダリストへと育て、マラソン界の「名伯楽」と呼ばれた小出義雄さん(享年80)の告別式がしめやかに行われた。
 お別れに訪れた多くの関係者の中には、小出さんを恩師と慕う、日本女子長距離マラソン強化部長の金哲彦さん(55歳)の姿もあった。
 プロランニングコーチとしても活躍する金さんは、現在放送中のNHK大河ドラマ『いだてん』でマラソンの指導も行っている。
 そんな金さんだが、あと一歩遅ければ、師と仰ぐ小出さんより早く亡くなっていた可能性もあった。
 金さんに大腸がんが発覚したのは42歳のころ。
 働き盛りと言われる年齢だ。
 ステージⅢで、がんが大腸の外にはみ出すほど進行していた。
 金さんが当時を振り返る。
 「自覚症状は確かにありました。
 僕は1年に一回は人間ドックを受けていたのですが、2年続けて便に血が混じる『便潜血』の項目にチェックが入っていたのです。
 診断書には『要再検査』と書いてあったのですが、『どうせ痔だろう』と勝手に自己判断して、忙しさから再検査を受けずにいました。
 これは私だけではないと思いますが、スポーツマンは、みんな体力に自信があるので、自分が病気になるなんて思ってもみないわけです。
 でもその過信の結果、大事ながんのサインを見落としてしまっていた。
 もっと早く見つけることができたはずなのに……」

 便潜血はあったものの、特にそれ以外の目立った症状はなかった。ところが、しばらくすると身体にこんな異常が出てきた。
 「突然、平衡感覚がおかしくなってフラフラしたりすることが増えました。
 でもランニング中はその症状は出ず、普通にしているときにだけ出るのです。
 念のため脳ドックを受けたのですが、異常なし。
 僕自身も自律神経失調症か、もしくは男の更年期障害かと思い、病院ではなく鍼治療に通っていました。
 これは後で先生に言われたのですが、じつはこのとき大腸がんにより腸から出血していたため、貧血を起こし、それが原因でめまいやふらつきが起こっていたそうです」

 '05年には、講演中に呂律が回らなくなり、意識を失い、救急車で病院に運ばれてしまう。
 「脳出血や脳梗塞の可能性が高いと、脳のCTを撮ったのですが、やはり異常なし。
 誰もが脳の病気を疑う症状でしたので、まさか大腸がんから来る貧血だったとは思いもしませんでした。
 その翌年の'06年、ついに下血。
 肛門から大量出血し、そこでやっと大腸がんが発見されました。
 当時の僕は『病気になれば人生の負け』という気持ちが強かった。
 だから、異変があっても見て見ぬふりをしていました。
 でもそれは大きな間違いだったことを思い知らされました」

 金さんのように自覚症状がありながらも、それががんのサインと気が付かずに放置してしまうことはよくある。
 日本消化器学会認定専門医で松生クリニック院長の松生恒夫氏は、大腸がんの兆候についてこう語る。
 「頻繁に便秘になる、あるいは下剤を飲んでも治らないような便秘が10日間以上続くと注意が必要です。
 それ以外にも下痢や軟便、便が細くなったり、トイレに行った後も残便感がある排便不良も大腸がんの兆候としてよく言われています。
 腹痛やすぐおなかが張るようになったと訴える患者さんもいます。
 腹圧がかかってくるとガスがたまりやすくなり、便やオナラが出なくなる代わりにゲップが増える傾向があります」

■その腰の痛み、もしかして

 さらに大腸がんが進行すると「腸閉塞を起こし、そのうち頻繁に嘔吐するようになる」と語るのは、康心会汐見台病院院長の赤池信氏だ。
 「しかも通常の嘔吐とは違って、胃液ではなく、便のような茶色い吐瀉物が出る人もいます。
 ここまでくれば、かなり大腸がんが進行していると言わざるを得ません。
 手遅れにならないためにも、大切なのが、大腸がんの場合、便を毎日観察することです。
 便に血が混じる程度であれば、痔だと思って見過ごすこともありますが、それが何日も続けば、何か異常があると気付けるはずです。
 また、3親等以内に大腸がんの人がいる場合は、リスクが高くなるというデータもあるので、家族の既往歴がある人は、こまめに検査を受けたほうがいいでしょう」

 大腸がんには、直腸がんと結腸がんの2種類があり、兆候も微妙に異なる。
 便が出る肛門付近にできる直腸がんなら肛門痛が起こる。
 これは便が通るとき、がんに触れるからだ。腸がS字に曲がった部分にできる結腸がんなら中下腹部の痛みが発生する。

 一方、大腸がんと並び罹患数の多い胃がんはどうか。
 主な兆候としては、胸やけやみぞおちの痛み、食欲低下、体重減少(半年から1年間で体重の5%以上)、腹部膨満感などが挙げられる。
 「胃がんが、他の部位のがんと違うのは、比較的痛みが早く出ることです。
 具体的には、胃酸が胃にしみるような痛さです。
 『がんは痛みが出たらすでに手遅れだ』と思っている人もいますが、胃がんの場合は、痛みが出たからといって、必ずしもがんが進行していたり、転移していたりするわけではありません。
 自覚症状があってからでも十分回復の見込みはあります」(慶應義塾大学病院・腫瘍センター教授の西原広史氏)
 さらに胃がんは腹部だけでなく、意外な部位に痛みが出ることもある。
 消化器の神経は左側に集まっているので、左肩が痛くなることがある。
 一方で通常のがんと比べ、進行が早く致死率が非常に高いスキルス胃がんは、腰の痛みがサインとなる。
 元アナウンサーの逸見政孝さんも、歩けないほどの腰痛を訴えて病院を受診したところ「過労」と診断されたが、のちに検査でがんと判明。
 その後、1年も経たずに亡くなってしまった。

 全がんの中で、死亡者数のトップに立つのが、肺がん
 死亡者数は年間約7万4000人に上る。
 肺がんは初期症状が薄く、検査をしても見落とされることが多い。
 2月末には、杉並区の肺がん検診で胸部レントゲンの異常所見を見逃したために肺がんが悪化したとして、同区在住の70代後半男性が病院と区を相手取って損害賠償請求を起こしている。
 このように非常に発見が難しいため、かなり進行した状態で見つかることが多い肺がんだが、前兆がないわけではない。

■おしっこの回数にも注意

 がんになると、手足がしびれたりする「腫瘍随伴症候群」が起こることがある。
 原因ははっきりしていないが、がん細胞が血中に異常なホルモンを分泌させ、それがしびれを引き起こしていると言われる。
 がん患者全体の約20%が、この症候群を伴うとされているが、中でもその割合が高いのが肺がんなのだ。
 3週間以上たんやせきが続いている、少し歩いただけで息が切れるといった症状に加え、手足のしびれが起こった場合、肺がんを疑って損はない。

 年間の患者数は約2万1000人と数は多くないが、男性が罹りやすい膀胱がんにはどんなサインがあるのか?
 獨協医科大学埼玉医療センター・泌尿器科准教授の井手久満氏が語る。
 「血尿は膀胱がんのサインになります。
 膀胱がんの場合『無症候性血尿』と言って、あまり痛みが伴わないのが特徴です。
 喫煙者で、最近おしっこの回数が増えて、痛みもないのに血尿が出たという人は危険ですね。
 夜間頻尿や『尿意を我慢できない』といった症状を訴えて来院される患者さんで、前立腺がんや前立腺肥大を疑って検査をしたところ、膀胱にがんが見つかるケースもあります」

 人体の老廃物を濾過し、尿を作るのが腎臓だ。
 歳を取るにつれて衰えてくると慢性腎不全、果ては腎臓がんのリスクが上がる。
 腎臓がんも膀胱がんと同じく女性より男性のほうが罹患しやすい。
 「初期の腎臓がんは、尿検査を受けて、『顕微鏡的血尿』で見つかるケースが多いです。
 顕微鏡的血尿というのは、見た目にはわからないけれど、尿検査で血が混じっている状態が確認された尿のことを言います」(前出・井手氏)
 腎臓がんは、自覚症状が少なく、検査で見つかることも多いが、腎臓の濾過機能が低下しタンパク質が流れ出るため尿が泡立つ、脇腹の痛み、原因不明の発熱など兆候がないわけではない。

「沈黙の臓器」と呼ばれるように、肝臓がんは、見つかったときにはすでにステージⅢ~Ⅳであることもザラ。
 だが、いきなり肝臓がんになるわけではなく、基本は肝炎から肝硬変を経て、最終的に肝臓がんになるまで時間がある。
 その間にわずかな症状が出る。
 肝臓がんになれば、肌が黄色くなる黄疸が有名だが、その前段階で白目が黄色味を帯びることがある。
 大腸がんや胃がんと同じく、急にお腹が張る症状が出ることもあるので、それらを見逃さないことが大切だ。
 JA広島総合病院・肝臓内科主任部長の兵庫秀幸氏はこう述べる。
 「一昔前は、肝臓がんの9割はB型、C型肝炎が原因と言われていましたが、それは過去のこと。
 現在ではウイルスが関係しない肝臓がんが、約半数を占めます。
 増えたのが、肝臓に脂肪がつく脂肪肝です。
 脂肪肝の状態が30年続くと、肝硬変→肝臓がんへと変化していきます。
 若いころから太っていて、『何となく体がだるい』、『疲れやすくなった』と感じる人は、脂肪肝の可能性が非常に高い。
 この脂肪肝にいかに早く気付けるかが、肝臓がんを未然に防ぐ最も有効な手段と言えます」
 なんとなく元気がないなど、原因がはっきりしない症状が続いているとき「もしかすると、がんかもしれない」と頭の片隅に置いておくだけでも、健康寿命は大きく違ってくる。







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2019年4月12日金曜日

ゴボウとミョウガ

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JB Press 2019.04.12(Fri) 漆原 次郎
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56064

なぜ日本人だけがゴボウを育て文化に発展させたのか
世界で唯一の発展を遂げた根菜の物語(前篇)


●ゴボウ。栽培がなされ、またさまざまな料理に使われる点で日本特有とされる。

 日本人は「根菜」、つまり根や地下茎を食用とする野菜をたくさん食べてきた。
 本コラムでも取り上げたダイコンの他、ニンジン、カブ、レンコンなどなど。
 土の中で蓄えられる栄養を大切にいただいてきたのだ。
 さまざまな根菜の中でも「ゴボウ」ほど、日本の特有性が高い食材はないだろう。
 伝来種とされながら、日本でのみゴボウ栽培が発展していった。
 また、ゴボウがさまざまな食材として使われているのも日本だけという。
 東日本ではきんぴらゴボウ、西日本ではたたきゴボウが、ハレの日にも日常的にも食べられる。
 汁物や炒め物の具材、また天ぷらのタネとしても使われる。今も日本人はゴボウ好きといえよう。
 今回は、ゴボウをテーマに、日本における歴史と現在を前後篇で追っていきたい。
 前篇では、日本での独自の歩みを農と食の観点からたどっていく。
 ゴボウが栽培されたり、さまざまな料理に使われたりといった発展を遂げたのは日本だけ。
 その理由にも迫りたい。
 後篇では、ゴボウに注がれている現代の研究について伝えたい。
 福岡県で取り組んでいる「サラサラごんぼ」という新品種の開発について紹介する予定だ。

■平安時代の古文書に「悪實」「支太支須」という言葉が

 ゴボウというと、色や風味からいかにも日本の食材っぽい。
 だが、原産地は西アジアから地中海沿岸にかけて。
 日本への渡来については、平安時代、薬用として使われていた中国からという説がある。
 その一方で、より古く、縄文時代の鳥浜遺跡(福井県)、三内丸山遺跡(青森県)、忍路土場(おしょろどば)遺跡(北海道)などからゴボウの種子が出土している。
 複数方面からの経路があったのかもしれない。
 日本の文献に初めてゴボウの記述があったのは、平安時代の昌泰年間(898-901)に成立した漢和字書『新撰字鏡』において。
 「木」の部に「悪實 支太支須乃弥」とある。
 「悪實(悪実。あくみ)」は、ゴボウの種子のこと。
 また「支太支須(きたきす)」はゴボウの古名だ。
 今も使われる「牛蒡」の字については、延喜年間(901-923)に成立した本草書『本草和名』の第九巻「草中」に「悪實 一名牛蒡(略)和名岐多伊須」とある。
 なお、「牛蒡」は、ゴボウのひげ根が牛の尾に似ており、それに草の名前の「蒡」がついてできたといわれる。
 かつては「うまふぶき」とも呼ばれていた。
 また、「牛房」と書かれることも多い。


●古文書におけるゴボウの記述。(右)『新撰字鏡』「木部五十八(本草木名)」より。(左)『本草和名』第九巻「草中」より。(所蔵:ともに国立国会図書館、赤矢印は筆者による)

■「栽培植物へ」という一大転換

 ゴボウが日本人にどのように栽培されるようになったか。
 その歩みも文献の記述からうかがえる。
 承平年間(931-938)につくられた辞書『倭名類聚抄』に「牛蒡」が出てくるのは「蔬菜部」の「野菜類」において。
 この部には「園菜類」もある。
 ここから、北海道開拓記念館元学芸部長の山田悟郎氏は、当時のゴボウは畑で栽培されたものでなく、山野で採られた山菜だったと考えられると推測する。
 では、ゴボウが栽培されるようになったのはいつごろか。
 京都の東寺に伝えられた古文書『東寺百合文書』には、鎌倉時代中期の1266(文永3)年における丹波国の大山庄領家の注文事として「牛房五十把」また「山牛房卅本」の記述がある。
 ここから「山牛房(やまごぼう)」だけでなく、栽培された「牛房(ごぼう)」も存在したと見ることができる。
 つまり、この2つの文献から、平安中期から鎌倉中期の間に、ゴボウが栽培されるようになったことが推察できるわけだ。
 世界で日本だけとされるゴボウ栽培を、まさにこの時期の日本人が成し遂げたことになる。

■江戸期に生まれた滝野川ゴボウが日本各地に広まる


●収穫後のゴボウ。江戸時代に誕生した滝野川ゴボウが、その後、日本各地に広まっていく。

 その後、江戸時代にもなると、日本の各地でそれぞれに特徴を持ったゴボウが栽培される時代となった。
 今の千葉県匝瑳市大浦地区に古くから根づいていた「大浦ゴボウ」、石川県七尾市の沢野婆谷神社の神職が京都からコボウの種を取り寄せて植えたのが始まりとされる「沢野ゴボウ」、山口県美祢市美東町の赤土を利用した「美東ゴボウ」などだ。
 そうした中、元禄年間(1688-1704)、江戸の北豊島郡滝野川村(今の北区滝野川)では、鈴木源吾という人物がゴボウを改良し、栽培に取り組んだ。
 当地は水田に乏しかったが、やわらかな黒土に覆われて水はけはよく、畑作には適していたようだ。
 そこで、根の長い大きなゴボウが作られた。
 そして地名から「滝野川ゴボウ」と呼ばれるようになった。
 鈴木はゴボウの種子を売ってもいたらしく、その後、滝野川ゴボウは日本の各地に広まっていった。
 各地でその後、生まれた品種の多くには、滝野川ゴボウの系統が含まれるようになり、今や日本で栽培されているゴボウの種の9割は、滝野川ゴボウの系統に関係しているともされる。

■「きんぴら」も「たたき」もハレの日の料理食材だった

 食材としてのゴボウにも目を向けてみたい。
 中国からの影響を受け、当初は日本でもゴボウは薬用として使われていたとされる。
 料理にゴボウが使われていたことが分かる最古の文献は、平安時代の1146(久安2)年ごろ作られた、恒例・臨時の儀式、行事における調度についての記述『類聚雑要抄』にある。
 1118(元永元)年9月24日に供された宇治平等院御幸御膳のうち「干物五杯」の字の下に「海松(みる)、青苔(あおのり)、牛房(ごぼう)、川骨(かわほね)、蓮根(はすのね)」と並んでいる。
 その後は、南北朝時代から室町時代にかけて成立したとされる教科書『庭訓往来』の中で「煮染牛房」と記されている。
 ゴボウは煮物の材料だったようだ。
 日本の各地におけるゴボウ食は、どう展開していったのだろう。
 ゴボウの食文化などを研究する冨岡典子氏は、正月などの儀礼食として、関東以北では「きんぴらゴボウ」が、近畿地方では「たたきゴボウ」や「ゴボウのおひたし」が伝承されてきたと述べている。
 そして、祭りではゴボウがお供えになっていたことも触れ、「古代よりごぼうが神饌として供されたことが近畿地方を中心にごぼう料理の発達を促したと考えられないであろうか」と推測している*1。


●きんぴらゴボウ。呼び名の由来は、江戸時代の「金平浄瑠璃」の主人公、坂田金平(坂田金時の息子)の強さに通じるからとも、金平を演じた役者の髪型がゴボウに似ていたからとも。

 煮しめ、きんぴら、たたきなどのゴボウ料理は、基本的には「ハレの日」に出されるものだったようだ。
 だが、江戸時代も下ると、総菜屋などでゴボウが売られるようになり、庶民の日常食としても食べられるようになった。
 1853(嘉永6)年に完成した喜田川守貞の風俗考証書『守貞漫稿』には、「菜屋」と呼ばれる総菜屋の記述があり、生アワビやスルメ、焼き豆腐などの他、クワイ、レンコン、そしてゴボウが醤油の煮しめとして売られていたという。
 こうした店は江戸のあちこちにあったとも記されている。


●たたきゴボウ。「たたき」は、ゴボウを茹でて叩いて砕くことから。

■外国人は「ゴボウ食で虐待された」と訴える

 太平洋戦争中、ゴボウを巡ってこんな国際事件があった。
 日本軍は敵国捕虜たちにゴボウ料理を与えていた。
 だが、捕虜たちにはゴボウ食の文化も経験もあるはずがない。
 戦後の軍事裁判では、当時のオーストラリア人捕虜から「私は木の根を食べさせられた」という虐待を受けたとの訴えがあった。
 ゴボウを与えていた旧日本軍人は戦犯扱いになったともいう(その罪だけではないだろうが)。
 ゴボウを食べる文化と食べない文化の違いから生じた出来事だ。
 世界を見渡しても、ゴボウを食べる文化があるのは日本と韓国ぐらい。
 その韓国も、日本ほどさまざまなゴボウ料理があるわけではない。
 日本におけるゴボウの栽培や食は、世界で唯一のものといってよい。

 ではなぜ、ゴボウの栽培や食が日本だけでこれほど発展したのか。
 前出の冨岡典子氏は、ゴボウとよく似た日本原産のアザミ属を食べる習慣が一要因だという考えを示している*1。
 キク科アザミ属の「モリアザミ」は「山ゴボウ」とも呼ばれ、古くから根も食べられてきた。
 日本原産の山ゴボウに対するこうした食習慣が前段にあり、日本人だけが当然のようにゴボウも「食べられるもの」と認識し、日本固有のゴボウ食文化にまで発展したとすれば、興味深いことだ。
 他の国のことはつゆ知らず、日本人はゴボウの格を上げに上げてきたのだ。
 そして今もなお、ゴボウの栽培や食を発展させる日本人の営みは続いている。
 後篇では、ゴボウの新品種の開発の取り組みを追ってみたい。

(後篇へつづく)

*1:冨岡典子「日本におけるごぼうを食材とした料理の地域的分布と食文化」 日本家政学会誌 52, 511-521 (2001)



サーチナニュース 2019-05-23 12:12
http://news.searchina.net/id/1679041?page=1

体にいいこの野菜を日本人は珍重し、
中国人は「害草」として捨ててきた=中国メディア

 夏が近づくにつれて、夏に旬を迎える野菜が市場に出回り始めている。
 その一つが、そうめんやひやむぎの薬味や漬物として食されるミョウガだ。
 中国メディア・東方網は22日、ミョウガについて「日本人は宝物のように珍重するのに、中国人は害のある草とみなしてきた」とする記事を掲載した。
 記事は、ミョウガが強い生命力を持っており、「放っておけばその辺から自然と生えてくる」と紹介。
 地面の栄養分を吸収して急速に生長するミョウガは田畑で繁殖すると作物の生長に影響を及ぼし生産高が減るため、中国では農家から疎まれる雑草扱いされていると伝えた。
 また、中国ではミョウガが実は食べられることを知っている人が少ない一方、日本では価値の高い作物として栽培され、食用されていると説明。
 炒め物やあえ物に入れたり、細かく切って薬味にしたりといった食べられ方がされてきたが、健康志向の高まりとともに体にいい食べ物として注目されるようになり、その用途も増えつつあると紹介した。
 記事は、ミョウガが日本で広く食べられていることを知った中国の農家が近年商品作物としてミョウガを栽培し、日本に輸出して相応の経済効果を得ているとも伝えている。

 その苦さと香りゆえに敬遠する人も少なくないミョウガだが、好きな人にとっては熱さを和らげるような苦味と爽やかさが夏の到来を感じさせてくれる食材だ。
 ミョウガを食べると物忘れが激しくなるというのは根拠のない言い伝えであり、香りの成分が逆に集中力を高めてくれるとのこと。
 暑さにぼーっとしがちの夏にはやはりもってこいだ


ダイヤモンドオンライン 2019.5.19 江部康二:医師・財団法人高雄病院理事長
https://diamond.jp/articles/-/201915

1日3食は正しくない

まるで“浮き輪”のようなお腹まわり・・・このポッコリお腹をなんとか凹ませたい。
でも、「あんまり頑張らずに」ってのが人情ですよね。
運動すれば痩せるのはわかってる。
けれど、それができない。やりたくないんですよね。
わかってます、わかってますとも!
その体脂肪、運動ナシでも落とせる方法を教えましょう。

 1日3食を規則正しく食べるのが健康的とされています。
 そう学校で指導されたという人も多いですから、1日3食が当たり前だと思っていることでしょう。
 しかし、1日3食が健康にいいという証拠はどこにもありません。
 私自身はもう35年以上1日2食で超健康体です。
 これは、人類の歴史をさかのぼってみればわかることです。

 人類の歴史は700万年であり、米や小麦などの農耕を始めたのは1万年前、それ以前の約700万年は、狩猟・漁労・採集の日々を送っていました。
 そんなご先祖様が、1日3食をきちんと食べていたと思いますか?
 獲物が手に入ったときにたらふく食べて、それ以外は何日もひもじい思いをするのが当たり前の生活だったはずです。
 人類の歴史は、飢餓との戦いだったのです。

 1万年前に農耕を始めて定住するようになり、ようやく食べ物を貯蔵できるようになり、定期的に食事ができるようになりました。
 それでも、1日3食は食べていなかったに違いありません。
 それだけ豊富に食べ物がなかったからです。
 日本人は長い間、1日2食が普通でした。
 佐伯栄養専門学校の星屋英治氏によれば、少なくとも江戸時代までは1日2食でした。
 贅沢な暮らしをしていると思われがちな貴族社会でも、1日2食が普通だったのです。

 宮中における日々の行事などを記した後醍醐天皇撰の『日中行事』には、「朝の御膳は午の刻なり。(中略)申の刻に夕の御膳まいる」という記載があります。
「朝食は午の刻(正午)で、夕食は申の刻(午後4時)だった」ということです。
 朝起きてひと働きしてから、正午くらいに朝食を食べ、もうひと働きしてから、日が落ちる前に夕食を食べて眠る――これが自然な生活リズムだったのでしょう。

 鎌倉時代以降、武士の間では戦でのエネルギーを補給するため、1日3食にする者も現れましたが、これは例外的。庶民や貴族は、ずっと1日2食だったのです。

■いつから1日3食になったのか?

 庶民が1日3食になったきっかけは、江戸時代の「明暦の大火」(1657年)という説があります。
 焼失した江戸の町並みを復興するため、江戸幕府が全国から大工や職人を大勢集めて、朝から晩まで急ピッチで働かせました。
 このときに従来の朝食と夕食だけでは体力が持たなかったため、昼にも食事を出すようになり、1日3食の習慣が広まっていったといわれます。

 全国的に1日3食が定着したのは、明治維新後に軍隊ができたのがきっかけでした。
 軍隊に兵隊を集めるため、1日3食を提供することで「白米が毎日3回食べられる」ことを売りに、貧しい農家の次男坊や三男坊を募集したのです。
 その後、1920年に国立栄養研究所が開設されて、初代所長に佐伯矩博士が任命されます。
 その佐伯博士が栄養士制度を発展させるため、1924年に設立した“世界初の栄養学校”が、前出の佐伯栄養専門学校。日本で1日3食が積極的に奨励されるようになったのは、1935年にその佐伯博士が提唱したことに始まるとされています。

 イギリスやフランスなどのヨーロッパ諸国では、日本の戦国時代にあたる15~16世紀頃に、それまでの1日2食から1日3食に移行したとされます。
 朝食は英語で「breakfast」ですが、1日の最初の食事=断食(fast)を破る(break)を意味していたのが転じて朝食という意味になりました。
 必ずしも朝起きたタイミングで食べていたわけではなく、当初の「breakfast」は日本の貴族たちと同じように、ひと仕事終えたあとの正午頃に食べていたのかもしれません。

 いずれにせよ、日本でもヨーロッパ諸国でも1日3食の歴史は、ごく浅いことに変わりありません。
 1日3食が規則正しい食生活の基本であるという主張は、こうした歴史的背景を無視した根拠のない幻想にすぎないのです。
 こういう歴史的事実を知れば、1日2食がなんらおかしなことではないと納得していただけるでしょう。


サーチナニュース 2019-08-05 16:12
http://news.searchina.net/id/1681340?page=1

中国で拡大するジャポニカ米の生産と消費、
価格安定めざし大連でコメ先物取引始まる

 日本では、主食としての米(コメ)の消費量が減退する「コメ離れ」がいわれているが、中国では日本米のような「粳米」(米粒が比較的丸いジャポニカ種)の消費が年々拡大している。
 すでに、中国は、米の生産量と消費量で世界最大国となっている。
 この8月16日には、大連商品交易所で「粳米」の先物取引が開始されるが、それを機にコメの流通市場が一段と整備され、コメの生産・消費の拡大に弾みがつくと期待されている。

 中国では、「粳米」(ジャポニカ米)よりも「インディカ米」(長粒種、日本ではタイ米とも呼ばれる)の生産が多い。
 中国で生産されるコメのうち、ジャポニカ米の比率は2018年で33%を占めるにすぎない。
 それでも年間生産量は概算で4700万トンとなり、世界のジャポニカ米の生産量の68%を占める。
 現在、年率平均4.2%増のペースで生産高が拡大しており、中国産のジャポニカ米の存在感は一段と高まる見通しだ。

 中国の省別のジャポニカ米の生産シェアは、黒竜江省が34.5%でトップ。次いで、江蘇省の26.1%、吉林省の9.7%、遼寧省7.1%が続く。
 江蘇省は、元はインディカ米の主要産地の一つだったが、ジャポニカ米に栽培移行した。

 ジャポニカ米の消費量の上位は、江蘇省、遼寧省、山東省がベスト3だ。
 日本の農水省の調査によると、北部の都市住民や農村住民の主食が小麦からジャポニカ米に移行する動きが続いている。
 上海市、江蘇省、浙江省のコメ消費は既にインディカ米からジャポニカ米へほぼ移行し、湖北省と四川省もジャポニカ米消費量が比較的大きい地域となり、広東省、広西自治区などのジャポニカ米消費も近年増加しているという。

 新たに、大連商品交易所で開始される「粳米先物」は、コメの価格変動が比較的大きいため、その価格変動リスクを低減する役割が期待されている。
 たとえば、過去3年間で黒竜江省富錦市のジャポニカ米の工場出荷価格は、最低価格がトンあたり3240元から最高価格は4500元と、最大で39%の開きがあった。
 コメの加工利益は製造コストと労働価格の上昇により、トン当たり80~100元、利益率にして約2%~3%になってしまっており、出荷時期による価格の変動がコントロールできなければ、たちまち赤字になってしまうというリスクがあるという。

 中国の3大先物市場の一角である鄭州商品交易所には、既にジャポニカ米の先物市場があるが、売買は活発とはいえない状況だった。
 今回、より規模が大きな大連で「粳米先物」の取引が開始されることが刺激となって、鄭州のジャポニカ米先物も活性化することが期待されている。

 日本で「コメ離れ」が続いているのは、日本のコメ市場が「ブランド」や「産地」を限定して販売されることが一般的で、人気ブランドの価格が高騰してしまったことが一因になっている。
 また、需要が減退しても価格が一定水準以上に維持されていることもあって、デフレ時代に食料品としての価格が割高に感じられるようになったのだろう。
 それと比較すると、中国のコメは、「工場出荷価格」で価格が示されるほど、コモディティ化している。
 価格も日本での流通価格の数分の1だ。
 今後、中国のコメにも、日本同様に「ブランド米ブーム」がやって来ることがあるのだろうか?


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2019年4月10日水曜日

21 km走:2時間26分31秒 キロ6分59秒 ベアフットで初めての21キロ

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 ベアフットシューズでのはじめての21キロ

 少し前までは平年より10度高い気温だということであった。
 現在は5度ということである。
 そのせいではないが、このところ体調不良である。
 いつもは朝夕各4キロ計8キロほどの散歩するが、一昨日とその前は2キロがやっとであった。
 昨日は持ちなおして4キロ歩くことができた。
 1キロほど走りはじめて感じたことは、やはりまだ不調のようだということだ。
 何か疲労の塊が体のどこかにドンとあって、根を生やしているのではないかという感じだ。
 今日は焦らずに行くことにしよう。
 5km36分はこの状態ではこんなものかと思う。
 21kmを走り切るというのが今月の目標であるが、どうも、無理せず足任せでどこまで行かれるのか、というところになりそうである。
  長くランニングをやめていて、今日からまたはじめようか’という時の気分に似ている。
 10kmまでの5kmスプリットは35分19秒で、10kmタイムだとキロ7分(1時間10分)より1分20秒ほど悪い。
  前回と比較すると4分ほど多くかかっている。
 やはり体調がよくないということなのだろう。

 体が慣れてくれば後半タイムは上がるので、この程度の遅れは残りの10kmで十分とりかえせると思う。
 でも21km走れるのだろうかという心配の方が先に立つ。
 だめでも20kmはどうしても行きたいと思う。
 でないと、この月の練習の意味がなくなる。
 風は強い南風である。
 前半のパークランドはあまり風に影響されないが、内海沿いを走る後半のランドエンド・コースは風にさらされる個所が多い。
 15kmまでは追い風3キロ半、向かい風1キロ半で、風の影響はあまりうけない。
 そのせいかこの5kmを34分を切って走れた。
 1分10秒縮めて、あと11秒ほどである。
 だが、逆に向かい風3キロ半、追い風1キロ半の20kmまでの5kmはつらい。
 やむえず18キロ半でダウンした。
 体ががんばれない。
 もし、20km走に変更していたら無理に無理しても走っただろう。
 でもあと2キロ半、すべて向かい風、となると心理的にもダウンである。 
 ベンチで少し休む、体を休める。
 気を取り直して走り出すもやはりつらい、つらいものはつらい。
 ようように20kmを通過する。
 貯金ができるほどの速さでは走っている。
 トータルでキロ7分計算での貯金を26秒にする。
 最後の護岸歩道を7分で行かれれば、十分にキロ7分を切れる。
 体がふらふらするが、地面を見て、時々顔を上げ、居場所を確認する。
 ぎりぎり7分で、最後の1キロを終えることができた。
 何とかかんとか走り切り、キロ6分59秒で終わった。
 今日は体調からして、21kmを走れたこと、そしてキロ7分を切れたこと、全区間ベアフッとでああったこと、この3つは十分な成果であると思う。
 21kmを2回連続で走り、それが当たり前の距離になったということである。
 前回は後半キッドシューズだったが、今日は通してベアフットであった。
 前回より9分遅れと、えらく悪いタイムになってしまったが、でも大きな成果を得られたと思う。
 
【 4月10日 21km  2時間26分31秒 キロ6分59秒 ベアフット
5km    36:00      36:00 
10km    35:19    1:11:19
15km    33:52    1:45:11
20km    34:22    2:19:33
21km     6:58    2:26:31

【 4月03日 21km  2時間17分23秒 キロ6分33秒 ベアフット&キッドシューズ
5km    33:17      33:17  <ベアフット>
10km    33:40    1:06:57 <ベアフット>
15km    31:46    1:38:43 以下<キッズ・シューズ>
20km    31:58    2:10:41
21km     6:42    2:17:23



● 計145km 走り終わった後、カカト以外に擦り切れ部分はない

 上張ステッカーは擦り切れてなくなっている。

 というよりテープが擦り切れ、ステッカーは半擦れ状態でなくなった、といったほうが正確であろう。
 21km走ったら上張ステッカーを張り替えるという目算通りに動いているといっていい。

 補修を実行する。

 要領が分かってきているので、イージーなルーチンワークになってきている。


● 擦り切れたテープをはがして中段ステッカーを出す



● 中段ステッカーの上にテープを貼り下地を作り、それに上張ステッカーを貼る


● 上段ステッカーにテープを貼って修理完了

 今日で約150キロほどになったが、カカト以外の目立ったすり切れとか損傷は出ていない。
 まず間違いなく200kmは持つであろう。
 あと3回走ると208kmである。
 3回目は5月の初めになる。







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2019年4月9日火曜日

紙幣を刷新へ: 1万円渋沢栄一、5000円津田梅子、1000円北里柴三郎

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ANNニュース 2019/04/09
https://www.youtube.com/watch?v=sDNgnNprbns




4/9(火) 1:09配信 毎日新聞
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190409-00000002-mai-bus_all

紙幣を刷新へ 
1万円渋沢栄一、5000円津田梅子、1000円北里柴三郎

 政府は数年後をめどに、1万円などの紙幣の肖像画を変える準備に入った。
 肖像画の変更は2004年以来となる。
 政府関係者が9日未明、明らかにした。

▽:1万円札は第一国立銀行や東京証券取引所など多くの企業を設立、経営した実業家、渋沢栄一
▽:5000円札は津田塾大学の創始者、津田梅子
▽:1000円札は「近代日本医学の父」として知られ、ペスト菌を発見するなど医学の発展に貢献した北里柴三郎
の肖像画を使用することを検討している。

 1万円札の肖像は1984年に聖徳太子から福沢諭吉になって以来の変更となる。
 5000円札の肖像は04年に新渡戸稲造から日本で戦後初めて女性の樋口一葉になり、
 1000円札の肖像は同年に夏目漱石から野口英世に変わっていた。

 紙幣の様式は通貨行政を担当している財務省、発行元の日本銀行、製造元の国立印刷局の3者で協議し、日本銀行法に基づいて財務相が決める。



サーチナニュース 2019-07-09 16:12
http://news.searchina.net/id/1680506?page=1

中国でも新紙幣発行! 
偽札が怖くても現金支払いを拒否できない=中国メディア

 新元号令和の発表直後の4月9日、麻生太郎財務大臣は1万円、5千円、千円の新紙幣を2024年度上期をめどに発行すると発表したが、それから間もない4月30日、中国人民銀行も新たな50元、20元、10元、1元紙幣と1元、5角、1角硬貨を本年8月30日に発行すると発表している。

 中国メディアの集幣在銭は7月8日、新版人民元発行に関連するいくつかの疑問について、中国人民銀行がオフィシャル・ブログ上で説明をおこなったと報じている。
 同記事によると、
★:第一の疑問は新版人民元の発行はインフレーションを引き起こさないか、ということで、
 これに対し中国人民銀行は、「古い人民元を新しい人民元で置き換えるだけであり現金の流通量は不変なのでインフレーションにはつながらない」とした。

★:第二の疑問はスマートフォンによる支払いが普及するなかで新たに現金を発行する必要があるのか、ということ。
 これに対しては、「現金の使用は減っているものの、現金使用の歴史、消費者の習慣、辺境地区や特定グループの人々の需要を考えれば現金は今後もかなりの長期にわたって中国の重要な支払い手段であり続ける」と回答した。

★:第三の疑問は、なぜ新版人民元には5元紙幣と100元紙幣がないのかという点で、
 中国人民銀行は、
 「額面金額が小さく流通量の比較的少ない5元紙幣については現在研究を進めている新技術を適用したうえで別途発行するとし、100元紙幣については2015年11月に偽造防止措置等を施した新版を発行したところであることから今回は新版を発行しなかった」
とした。
 新技術を適用する5元紙幣については、プラスチック紙幣になるかもしれないと噂されている。

 同記事は、このように中国人民銀行の説明を引用したあとで、
 「しかしながら、新版人民元の正式発行の前に偽造通貨判別方法についての知識普及を進めることが大いに必要」
と結んでいる。
 中国では、50元・100元といった高額紙幣を中心に偽札が横行しており、依然として現金決済が中心となる旅行者は特に、紙幣の取扱いに気を付けたい。

 日本の新紙幣発行は、発行の5年も前に発表がなされたことや世界では偽造対策としては高額紙幣を廃止する流れであるにも関わらず1万円札の刷新をもおこなうことなどから、改元と新天皇即位という一連の祝賀ムードを一層盛り上げることが目的ではないかとする報道がみられたが、中国での新人民元発行は純粋に偽造紙幣防止の観点からおこなわれることは疑いの余地がないといっていい。



サーチナニュース 2019-07-26 05:12
http://news.searchina.net/id/1681042?page=1

教育家や科学者を紙幣の肖像に採用する日本や英国の恐ろしさ=中国メディア

 世界各国で発行されている紙幣の多くには人物の肖像画が描かれている。
 中国の紙幣であれば、1元から100元までは6種類の額面の紙幣が存在するが、そのすべてに中国建国の父とされる毛沢東の肖像が採用されている。

 日本では1000円札が野口英世、5000円札が樋口一葉、1万円札が福澤諭吉となっているほか、今後発行される紙幣でも北里柴三郎や渋沢栄一が採用されることになっていて、政治家の名前はまったく見られない

 また、英国でも人工知能の父とされるアラン・チューリングが新50ポンド札の肖像に採用されると発表されたばかりだが、中国メディアの捜狐はこのほど、「教育家や科学者を紙幣の肖像に採用する動きから、日本と英国の恐ろしさが見て取れる」と論じる記事を掲載した。
 記事は、日本が毎年のようにノーベル賞受賞者を輩出できるのは、子どもへの教育をそれだけ重視しているからであり、その姿勢は紙幣に描かれている人物を見れば分かると指摘。
 また、英国でもこのほど、人工知能の父と称されるアラン・チューリングが紙幣の肖像に採用されたことを紹介し、日本と英国の姿勢は「両国がどれだけ教育を重視しているかを明確に示すもの」であると強調した。

 特に英国の教育は詰め込み式の中国の教育と大きく違っているとし、理数系を重視した「STEM(ステム)教育」が採用されていると紹介。
 この教育は実験をしたり、絵を描いたりと、詰め込み教育とは程遠い内容となっているため、英国に移住した中国人の保護者からすれば「まるで遊んでいるように映る」と指摘する一方、こうした教育観の違いが日本や英国との科学技術力の差になって顕在化していると伝え、ここに教育を重視する日本と英国の恐ろしさがあると強調した。