2019年9月25日水曜日

10 km走:1時間14分15秒 キロ7分26秒 6週間ぶりのランニング

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● 6週間ぶりのランニング10km


 前回は8月14日なので6週間ぶりのランニングとなる。
 病症は慢性的なものになっており、走るのには向いていない。
 それでも、いくらかは気分的に良くなってきているので、走ってみたくなった。
 ズルズルと走らないままにしておくと体がそれに慣れてしまって走れなくなるのが心配になって’なってきたのである。
 ほぼ1カ月半ぶりなのでどこまでいかれるかはわからないが、とりあえずは10kmを走り切る、というのを目標にする。
 もしそこまで体が動かなかったら、ゴールドコースト・ブリッジ折り返しの7キロはなんとかしたいと思う。
 走り始めると、やっぱり体がまるで動かない。
 足がついていかずに、気がせいて前につんのめりそうになる。
 すぐにお尻が痛くなる。
 典型的な休み明け症状である。
 1キロを7分ちょうどで通過する。
 このあたりからお尻りに代わってそして腰に痛みが出始める。
 腰が切れない、ということである。
 無理もできずに、足と体のままに走る。
 ゆっくりゆっくりである。
 老人走法に徹する。
 おそらくキロ8分くらいではないだろうか。
 それでしか走れないということでもある。
 3キロあたりで、これでは10kmは無理で、8kmに目標を変えようかと思い始める。
 いたしかたあるまい。
 いつでもやめられるようなコースを選んでいるので、5kmのチェックはない。
 それでもそのあたりから、少しづつ腰の痛みが抜けてきた。
 わずかであるが勢いがついてきた。
 これなら我慢我慢で10kmいかれるのではないだろうか。
 6キロ過ぎに遊歩道路面に書かれている距離表示を使って2kmのタイムチェックをしてみた。
 「14分54秒」でギリギリ15分を切っている。
 キロに直すと7分27秒である。
 そこそこといったところか。

 距離を10kmに定めた。
 護岸歩道のラストの1キロはどこまで’いかれるか。
 7分24秒、ラストスパートなどはまるでない、というタイムである。
 本人は一生懸命に走ったのではあるが。
 体自体がラストスパートをかけられるほどに動いてくれていない、ということだろう。
 いつもなら走り終わるとベンチに倒れ込み、ハーハーと息を整えるのだが、今日はそんな症状はみじんもない。
 トータルで「1時間14分15秒」で「キロ7分26秒」というわけである。
 これでは息が上がることもないわけである。
 走った後通常は脈拍数が増加して血圧は下がるものなのである。
 しかし、今日は脈拍数は増加しているが、血圧は変わらない。
 なぜだろうか?
 そういうことなのだろう!

【 9月25日 10km  1時間14分15秒 キロ7分26秒 ベアフット
10km       1:14:14 

 1カ月半ぶりのランニングはなんとか10kmを走り切ることで終わった。
 目標的には達成ということになる。
 再開の第一ステップはクリアーできた。
 次回は15kmを目指すことになる。
 規準としている17kmは次々回になるだろう。
 なを、ベアフット・シューズは完全に足に慣れて、6週間ぶりという違和感もなく、しっとりと足に馴染んでいる。
 もう普通のランニングシューズは履けない。
  次回に15km走れば総計で400kmとなる。
 

● ベアフットシューズ耐久性テスト実施中 385 km  

【後日】
 たった10キロのことなので筋肉痛にやられることはあってもすぐに正常にもどるどろうと高を括っていた。
 老人の疲労はすぐに出てこない。
 翌日は普段通りであったがその翌日からは大腿部の筋肉痛と神経痛に悩まされることになる。
 筋肉痛の方はそれでも3日もたてが収まったが、神経痛はしつこい。
 大腿四頭筋ならびに裏側の大腿二頭筋にときどきというより、結構頻繁にビリーリーと神経痛が走る。
 歩いていても、椅子に座っていても、横になっていても時と処を構わずに襲ってくる。
 ひどいときは足を引きずる感じになる。
 齢に見合わず無理をし過ぎたかとおもったりもする。
 週は変わっているが、今週は走ることはまず無理であろう。
 神経痛が収まってくれないことにはお手上げで何おかいわんやである。
  神経痛が収まってきたら今度は大腿部とお尻の付け根に筋肉痛出てきた。
 なかなか思うようには収まってくれない。

【後日:08.oct
  神経痛は収まったが、筋肉痛の元が消えない。
 大腿部、大腿部の裏、脇腹、下っ腹、濃しと足の付け根、時にフクラハギなどランニングで揺さぶられた筋肉に症状が出ている。
 すでに2週間である。
 筋肉痛なんてもものは1週間が限度だろう。
 ショッピングセンターに行っても、足を引きずる感じで、腰をかがめると痛みが走る。
 筋肉痛は静かにしていれば何時かは治るものだから、ただその余波か食欲がまったくわかない。
 普段の半分くらいを何とか口に入れている。





 


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2019年9月18日水曜日

オーストラリアの景気拡大は続くのか、今後を左右する不動産価格動向 

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ダイヤモンドオンライン 2019.9.27 5:00 西濵 徹:第一生命経済研究所 経済調査部 主席エコノミスト
https://diamond.jp/articles/-/215915

豪州の28年間続く景気拡大が岐路に、今後を左右する不動産価格動向

 豪州経済は1991年半ば以降、2四半期連続でマイナス成長となる景気後退局面(リセッション)に陥ることのない状況が続いている。
 今年4~6月まででその期間は112四半期に達し、「世界最長記録」を更新し続けている。
 なお、過去30年弱にわたる景気拡大局面のうちマイナス成長となったのは3回(3四半期)あるが、
 ITバブル崩壊(2000年10~12月)、
 世界金融危機(08年10~12月)、
 欧州債務危機(11年1~3月)
と外部要因によってもたらされるものに限られてきた。


図表1:実質GDP成長率(前期比年率)の推移

 さらに、近年は中国経済の高成長を背景とする旺盛な資源需要を追い風に景気拡大を謳歌してきた。
 同国の最大の輸出相手はかつて、日本であったものの、世界金融危機を境に中国向け輸出を拡大させてきている。


図表2:中国向け及び日本向け輸出額の推移

■景気は減速傾向強めるが輸出は中国向け中心に伸びる

 その結果として、豪州経済は中国景気の動向に影響を受けやすくなっており、米中摩擦などの影響で足元の中国景気が減速傾向を強めていることは、豪州経済の重石となっている可能性がある。
 事実、今年4~6月の実質GDP(国内総生産)成長率は前期比年率1.94%増とプラス成長を維持しているものの、中期的な基調を示すトレンドベースの前年同期比ではプラス1.48%と前期(同プラス1.70%)から伸びが鈍化するなど頭打ちの兆候を示している。
 トレンドベースの前年同期比の動きをみても、過去数年は上下動を繰り返しつつも緩やかな景気拡大を続けてきた様子がうかがえるものの、昨年初旬をピークに急速に減速の動きを強めており、昨年以降の米中摩擦の激化などに伴う中国景気の減速、世界的な景気減速懸念が足かせになっている可能性がある。 


図表3:実質GDP成長率(前期比年率)の推移


図表4:実質GDP成長率の推移

 しかし、財の輸出の動きをみると足下では前年を上回る伸びで推移しており、うち中国向けは全体を上回る伸びをみせるなど、輸出を取り巻く状況は決して悪くない。


図表5:財輸出額(前年比/豪ドルベース)の推移

■内需が景気の足かせに 不動産価格下落がその要因

 この背景には、昨年以降、通貨豪ドルが米ドルをはじめとする主要通貨に対して下落圧力を強めており、結果的に輸出競争力が向上していることが挙げられるほか、中国によるインフラ投資拡充の動きなども影響している可能性がある。


図表6:豪ドル相場(対米ドル)の推移

 こうしたことから、足元の豪州経済は内需が足かせになっていると考えられる。
 その最大の要因は、中国をはじめとする海外からの資金流入も追い風に不動産投資が活況を呈してきたものの、ここ数年の当局による規制強化の動きなどに伴い不動産市況が17年半ばを境に一転して頭打ちの様相を強めていることである。


図表7:主要8都市の不動産価格指数の推移

■不動産投資の規制緩和 中央銀行は2ヵ月連続で利下げ

 BIS(国際決済銀行)によると、昨年末時点における豪州の家計部門が抱える債務残高はGDP比で120.3%と主要国と比較しても突出した水準にある。
 さらに、銀行部門の貸し出しに占める個人向けの割合は全体の7割弱に達する上、個人向け融資の9割以上は住宅ローンが占めている。

図表8:銀行部門による対象別融資残高の推移

 不動産価格の動向は家計部門による消費行動のみならず、銀行部門の貸し出し態度をも左右する傾向がある。
 よって、上述のように足元の不動産市況が調整圧力を強めていることは、家計消費や企業の設備投資など幅広く内需の足かせとなり得るため、当局は一転して不動産投資に対する規制緩和に動く姿勢をみせている。
 さらに、豪州準備銀行(中央銀行)は今年6月に約3年ぶりとなる利下げに踏み切ったほか、翌7月にも2ヵ月連続での利下げに動くなど、急速に金融緩和を進めている。
 こうした中銀の姿勢は豪ドル相場の下押し圧力になるとともに、上述のように輸出を押し上げる一助になったとみられる。

■失業率はやや悪化も雇用は正規中心に堅調

 足元ではFRB(米連邦準備制度理事会)による「予防的利下げ」実施の動きを理由に豪ドル相場は底入れしており、一方向的な動きに傾く状況とはなっていない。
 国際金融市場においては、足元で中国政府が景気刺激策に傾いていることを理由に、中国景気の底入れが進めば豪州経済は後押しされるとの見方がある一方、上述のように足元の豪州経済は内需が足かせとなっていることを勘案すれば、中銀はさらなる金融緩和に追い込まれるとの見方もくすぶる。
 さらに、今年5月の総選挙を経て2期目を迎えたモリソン政権は中国との関係が必ずしも良くない状況にあるなど、中国向け輸出を巡って「風向き」が急変するリスクもくすぶる。
 よって、当面の金融政策の行方を左右するのは足元において頭打ちしている不動産市況が、底打ちできるか否かにかかっていると判断できる。
 また、中銀は過去数回の金融政策委員会において、雇用・所得環境の動向を注視する姿勢を示しており、この行方も金融政策、ひいては豪ドル相場を左右する材料となり得る。

 足元の失業率はやや悪化する動きをみせているものの、雇用者数の動きは正規雇用者を中心に堅調な動きをみせており、労働参加率も過去最高水準を更新するなど労働意欲も高い状況が続いている。

図表9:雇用環境の推移

 賃金上昇率の伸び悩みは調整が続く不動産市況とともに家計消費の足かせとなっているものの、労働需給がひっ迫するなかで賃金上昇圧力が強まる動きが顕在化すれば、家計消費を取り巻く環境が一変する可能性もある。

 モリソン政権は大規模減税で景気の下支えを図っているが、豪州経済が今後も景気拡大局面の世界最長記録を更新し続けられるか否かは、同国の不動産市場の行方と雇用・所得環境の動向に掛かっている。

(株式会社第一生命経済研究所 調査研究本部 経済調査部 主席エコノミスト 西濵 徹)




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2019年9月17日火曜日

海老について:海老養殖は今?

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 オーストラリアの魚類の王者といえば「サーモン」をおいてほかにない。
 といってもこれオーストラリア・サーモンとはいわれずに、「ニュージーランド・サーモン」になる。
 この二種には若干のちがいがあるようだが、シロウトにはわからない。
 ニュージーランド・サーモンもタスマニア・サーモンもどちらもおいしいことに違いはない。

 次はエビだろう。
 30年くらい前に、日本でイセエビブームが起こった。
 イセエビというのはあの引き出物などに使われるやたら豪華なヤツである。
 それが巷で食べられたのである。
 もちろんとんでもないお値段であったのだが。
 たしか一匹一万円はしたようなうすらな記憶があるのだが。
 このエビは「イセエビ」ではなく「ロブスター」であった。
 非常に形が似ていたのでイセエビとして料理されていた。
 実際は西オーストラリアのパースで水揚げされエビで、その日のうちに日本に空輸され翌日には料理に供されたというわけである。
 そんな手間をかけても商売になったのである
 パースへ行ったとき、日本ではとても食べられないシロモノなので、ここで初味をと出かけていった。
 港だったと思うが、その手のレストランが3,4軒あった。
 オーストラリアンはそのころ生魚は食べなかったので、経営で日本人であった。
 日本の団体さんが対象客である。
 イセエビを生でプリプリの状態で食べたい、というのは民族的願望にほかならない。
 きっといい思い出を舌に刻んで帰国されていったと思うのだが。
 同じ時期、ゴールドコーストにはこのエビをサシミで出す料理店はなかった。
 注文するとボイルされたエビにマヨネーズだったかチーズだったかがドレッシングされたものが出てきた。
 エビの肉感であるあのシコシコといった歯ごたえはまったくといっていいほど消え、かくもまずくエビを料理するとは、と嘆きが入るほどであった。
 
 引っ越してきて感激したことの一つに普通の生エビ(オーストラリア車エビ=オーストラリアタイガー)がある。


● オーストラリアタイガー

 シーフード屋へいくとウインドウのなかに大ぶりと小ぶりのボイルされた山積みされていた。
 1kgで20ドル以下であった、といっても安いことはわかるがどれほどのものはわからなかった。
 1キロ買ってベンチにすわり3,4人ほどエビの頭をちぎってはビールを飲みながら楽しんだものである。
 足元にはエビの殻をもとめてカモメやアイビスが群れて、ときにペリカンすらよってくるという、のどかな日和を楽しめたものである。
 このエビはいまでもスーパーのウインドウのなかにある。


JB Press 2019.10.11(Fri)漆原 次郎
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/57880

「クルマエビの父」が切り開いた世界のエビ養殖
世界を渡り歩くグローバル食材、エビ(前篇・後編)

 弁当屋やコンビニエンスストアに、量り売りの惣菜コーナーが置かれていることがある。
 「エビとブロッコリーのサラダ」に手が伸びると、「ブロッコリーよりエビ多めで」と、つい欲が出てしまう。
 私たちは「エビ」という食材に対して、相当な価値を感じているのかもしれない。

 だが、そのエビはどこからやってきたのかを知っている人は多くないのではないか。
 国産ものなのか、輸入ものなのか。
 養殖ものなのか、天然ものなのか・・・。
 実は、日本人が大量にエビを消費するようになったのは戦後であり、そこには日本発の養殖技術が世界に広がったという経緯があるのだ。

 今回は「エビ」に光を当てる。
 前篇では、日本人がいかにエビと接してきたか、その中で「エビを育てる技術」がどのように確立されたのか、その歩みを追ってみたい。
 そして後篇では、現在のエビ生産で主流となっている養殖に対して、どのような研究開発がなされているのかを伝えることとする。

■江戸時代、天ぷらの流行でエビが庶民の食材に

●1712(正徳2)年、寺島良安が著した百科事典『和漢三才図会』巻第五一にある「鰕」と「紅鰕」の項目(一部)。後者には「いせえび」と「かまくらえび」の読み方が併記されている。(所蔵:国立国会図書館)

 エビが日本の書物に初めて現れるのは、733(天平5)年成立の地誌『出雲国風土記』においてとされる。
 出雲以外の国の「風土記」も作られたが、完全な形で現存するのは『出雲国風土記』だけだ。
 島根県に現在もある中海の産物を伝える記述には、「入鹿(イルカ)・和爾(ワニ)・鯔(ナヨシ)・須受枳(スズキ)・近志呂(コノシロ)・鎮仁(チヌ)・白魚(シラウオ)・海鼠(ナマコ)」などと並ぶ中に「鰝鰕(エビ)」も出てくる。
 これらは朝廷への献上物だったとされるが、当時からエビが海産物として獲られていたことがうかがえる。

 エビは古くから「縁起もの」ともされてきた。
 陽や命を連想させる鮮やかな「緋色(ひいろ)」とよばれる赤身、
 長寿を想起させる長いひげ、
 そして甲冑のような硬い殻
などがその由来だ。
 伊勢神宮では、神に供える酒食「神饌(しんせん)」の中に「鰕(エビ)」の丸身が含まれていた。
 これはイセエビと考えられる。
 武士たちの間でも縁起のよい食材として広まっていった。

 エビが庶民の食材となったのは、江戸時代とされる。
 江戸前の海では、アナゴやキスなどの魚のほか、シバエビなども豊富に獲れた。
 江戸っ子たちは、これら魚介類を衣に包んで揚げ、天ぷらとして食べるようになった。
 また、鎌倉沖で獲れたイセエビは「鎌倉蝦」とよばれ江戸に送られ、江戸町人の胃袋に収められたようだ。

■戦後、漁業の近代化などによりエビの消費量は急増

 こうして辿っていくと、「やはりエビと日本人は切っても切れない縁」という気がしてくる。だが、現代に入り戦後ほど日本人がエビを大量消費している時代は、これまでなかった。

 経済学者の村井吉敬が著した『エビと日本人』によると、1人あたり1年に食べるエビの量は、戦前は300グラムだったが、1986年には3キロになったという(いずれも有頭エビ重量)。2010年代は魚介類離れなどで消費量は減ったものの、それでも戦前に比べたら現在の日本人はエビを大量に食べている。

 どうして戦後、日本人のエビの消費量は急増したのか。村井が第一に挙げる要因が「漁業の近代化」である。

 エビ漁業の近代化で特筆すべきは、エビの人工飼育技術や養殖技術が開発されたことだ。そこでここからは、日本での代表的な2種類のエビ、つまりイセエビとクルマエビについて、人工飼育や養殖の歩みを辿ってみたい。

■イセエビはいまだ養殖技術が確立されず


●イセエビ。大きな尾と長い触角が特徴的。美しい姿から、ご馳走の食材のほか、祝儀用の飾りにも用いられる。主に太平洋に分布。

 イセエビの養殖技術は、まだ確立されていない。
 ただし、イセエビの生活環のうちの一部を飼育にして、安定供給を図るための研究には歴史がある。
 「日本における海産魚介類の種苗生産研究の歴史は、イセエビから始まった」という見方もあるくらいだ。
 中でも、ふ化した直後のイセエビ幼生を飼育して稚エビに仕立てることは、イセエビの安定生産にとって重要な技術となる。
 その研究は1898(明治31)年、水産講習所(現在の東京海洋大学)の服部他助と大石芳三によるふ化試験に端を発する。
 彼らは幼生を脱皮、成長させることに挑んだものの、うまくいかなかった。
 幼生が何を餌としているのかもまだ分からなかったのである。

 イセエビの幼生を脱皮させることに成功したのは、1958(昭和33)年のこと。
 静岡県水産試験場と東京大学の共同研究で、野中忠、大島泰雄、平野礼次郎の3氏が、イセエビ幼生の餌を突きとめたのである。
 その餌はプランクトンの一種「アルテミア」の幼生であり、これをイセエビ幼生に与えて1個体で2度の脱皮を成功させた。
 その後、全国各地の研究所で、他にも餌になるものが次々に見出されていった。

 そして1987(昭和62)年、北里大学の橘高二郎が、イセエビ科ミナミイセエビの幼生を初期段階のフィロゾーマ期から、次の段階のプエルルス期へと変態させる「幼生の完全飼育」に成功した。
 翌1988(昭和63)年には、三重県水産技術センターの山川卓らのグループが、イセエビで幼生から稚エビまでの飼育を果たしている。
 各研究では、ムラサキイガイの生殖腺を餌として選定したことや、水質管理を十分に行ったことが成功要因として挙げられている。
 その後も、研究者たちのイセエビの養殖実現化に向けて挑みつづけているが、幼生の期間が300日以上と長いこともあり、まだ実現していないのが現状だ。

■クルマエビは「父」の功績により養殖が実用化


●クルマエビ。体の各節に縞があり、体を巻くと縞が車輪のように見えるため「車海老」とよばれる。本州東北沿岸以南に分布し、養殖もされている。
 
 クルマエビのほうは、戦前より養殖への道が確実に開かれていった。
 その成果は、「クルマエビの父」ともよばれる水産学者の藤永元作の功績なしにはなし得なかったものだ。
 藤永は1903(明治36)年、山口県萩町(現萩市)に生まれた。
 1933(昭和8)年に東京帝国大学農学部を卒業すると、日本水産の前身である共同漁業に入社。
 下関市の早鞆水産研究所に所属し、クルマエビの研究に着手した。
 明治時代からクルマエビの飼育が行われていた長崎県の天草地方にも出向いてクルマエビの生態を研究し、それらの成果を養殖技術の確立に向け注ぎ込んだ。
 そして早くも1934(昭和9)年にクルマエビの人工孵化を成功させている。
 1940(昭和15)年には人工孵化したクルマエビを成エビにまで育成することにも成功した。
 人工孵化から育てた成エビに産卵させて、その卵をもとにふたたび人工孵化させることを「完全養殖」というが、藤永はその可能性を切り開いたのである。

 戦後、1949(昭和24)年になると、藤永は水産庁に入り、調査研究部長として米国、カナダ、ソ連などとの漁業交渉などを担当する。
 その間もクルマエビへの想いは失われなかった。
 水産庁勤務時代には、千葉県に研究室を自費で設立し、クルマエビの研究を続けた。

 藤永には、クルマエビを「安く食膳に供しよう」という夢があったという。
 1959(昭和34)年には水産庁を退庁し、その夢に向け翌1960(昭和35)年には養殖会社を設立し、稚エビの生産を始めた。
 そして、1963(昭和38)年、山口県秋穂町(現山口市)にて瀬戸内海水産開発という会社を立ち上げ、クルマエビの養殖事業を本格化させる。
 その後も、藤永はクルマエビの養殖技術を極めていった。
 1964(昭和39)年、「生態系方式」とよばれる、海の生態系を凝縮させたようなクルマエビの種苗生産モデルを築いた。
 ついにクルマエビ養殖事業が採算に乗ったのは1970年代のことという。
 クルマエビに対する執念、いや愛を持ちつづけた藤永は、養殖技術を世に遺して1973(昭和48)年、71歳で永眠した。

■養殖技術が世界へ、そして日本は大量輸入国に

 藤永元作により築かれたクルマエビの養殖技術は、1970年代から80年代にかけて海外に普及していった。
 その対象はブラックタイガーやバナメイエビなど、他のクルマエビ科にも広がった。
 1960年代初頭、日本人が食べていたエビのほぼすべてが国内産だった。
 だが、2017年時点では、輸入エビの量は国産の10倍を超え、日本人の食べているエビのほとんどが外国産となった。
 その過程では、1961(昭和36)年のエビ輸入自由化や、日本の大手水産会社や商社などによる冷凍エビの積極的な買付け・輸入などの要因もあった。
 それとともに、日本で確立されたエビ養殖技術が海外に普及したことも、「国産から輸入へ」そして「消費量の増加」という大きな変化をもたらしたのである。
 2000年代に入ると、世界での養殖エビ生産量が、天然エビ水揚量を追い抜き、現在その差は広がっている。
 途中、エビの感染症「早期死亡症候群(EMS)」が世界各地で蔓延し、危機もあったが、2018年の養殖エビ生産量は過去最高の約450万トンにまでなった。

 日本人とエビの関係は、戦前までは細く長く、ほぼ日本国内のみで続いてきた。だが、戦後、日本発の養殖技術をきっかけのひとつとして、太く、世界と関わるものに変貌したのである。
 いまや、私たち日本人のエビ食を、海外との関係なしに語ることはできない。
 こうした状況の中、現在もエビ養殖関連技術を開発し、それを海外でも使ってもらうことで日本として貢献しようとする取り組みがある。
 
 後篇では、現代のエビ養殖をめぐる研究開発に光を当てたい。
(後篇へつづく)




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2019年9月16日月曜日

「走る”綾瀬はるか”=前田穂南」がブッチギリで優勝、穂南時代の幕開け!

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● 前田穂南優勝

 女子は「走る綾瀬はるか」と言われる前田穂南が優勝した。
 なんと2位の中距離界の女王鈴木亜由子に4分近い差をつけてのブッチギリである。
 女子マラソン界は「穂南時代」がやってきた、という感じがする。
 三強の一角であった松田瑞生は4位に沈んだ。
 復活戦に臨むことになるか、それとも10.000mを狙うかになる。
 おそらく彼女は来年のオリンピックは「10,000m」出場に的を絞ってくるだろうと思われる。


MGC(マラソングランドチャンピオンシップ)女子結果
1.前田穂南   2:25:15   東京五輪内定
2.鈴木亜由子2:29:02   東京五輪内定
3.小原怜      2:29:06
4.松田瑞生   2:29:51
5.野上恵子   2:31:14
6.一山麻緒   2:32:30
7.福士加代子2:33:29
8.安藤友香   2:36:29


MGC(マラソングランドチャンピオンシップ)男子結果
1.中村匠吾   2:11:28   東京五輪内定
2.服部勇馬   2:11:36   東京五輪内定
3.大迫傑      2:11:41
4.大塚祥平   2:11:58
5.橋本崚      2:12:07
6.竹ノ内佳樹2:12:31
7.鈴木健吾   2:12:44
8.中本健太郎2:12:46

 
 波乱は男子。
 中村匠吾という下馬評にもなかったランナーが優勝。
 駒澤大学のエースランナーであったが「中村匠吾って誰?」というのが一般的であろう。
 今年のGCハーフマラソンの優勝者である服部勇馬が2位でオリンピック出場を内定した。
 大迫傑は3位であった。
 GCマラソン優勝の設楽悠太は遠く下位に沈んだ。
 設楽に残されているのは来年の東京マラソンで「2時間5分49秒以内を狙う」ことになる。
 おそらく彼は日本新記録を狙ってくるだろう。
 彼には10,000mを狙うスピードはない。
 マラソンで行くしかない。
 もし、設楽がそれにターゲットを絞ってくれば、大迫もうかうかしているわけにはいかなくなる。
 でも大迫はもうマラソンは走らないと思う。
 設楽が日本最高記録を出す確率はすこぶる低いし、もし出したとして大迫のマラソン出場が不可となっても、彼には10,000mでオリンピック参戦という選択肢が残っている。


サーチナニュース 2019-09-17 15:12
http://news.searchina.net/id/1682653?page=1

白熱した日本のMGC、
設楽悠太の「大勝負」にマラソンの深さを知った=中国メディア 

 東京五輪の男女マラソン日本代表を決定する一発勝負のMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)が15日に行われ、男女の上位2人が出場権を得た。
  中国メディア・東方網は16日、男子のレースで話題を集めた設楽悠太選手について「マラソン精神にチャレンジした」と評価する記事を掲載した。

 記事は、序盤から飛ばして大きなリードを奪うも後半失速して14位に終わった設楽選手について「自殺式とも言うべき戦法で、マラソン愛好者の間で最も多くの議論を呼び起こした」と紹介。
 一部では「見通しが甘い」、「準備不足」といった批判的な声があった一方で、多くの人が「マラソン精神にチャレンジする姿勢に感動を覚えた」と伝えた。
 そして、日本歴代2位のフルマラソン記録を持ち、レース前から大きな期待が寄せられていた設楽選手は、自身でも今回のレースの重要性を誰よりも理解していたとし、事前に
「前半から飛ばしてライバルをぶっちぎる」
と手の内を明かす戦術を取ったことからは
「設楽がこのレースをどう戦うかを熟慮し、十分に準備してきたことの説明になる」
と解説した。

 そのうえで、マラソンという競技は選手が持っている身体的能力やレースの経験だけではなく、相手をけん制し、本来の実力を出させないための戦術も不可欠なのだと説明。
 一方で、レースには様々な条件が複雑に絡み合った運も味方につける必要があることから、レースの結果だけを見てその戦術の良し悪しや成否を判断することはできないのだと論じている。

 「設楽が用意した戦術は決して意味のないものではなかったし、条件が少しでも変わっていればそのまま逃げ切る可能性もあった。
 結果はあくまで結果で、非常に素晴らしいチャレンジだった」
というのが、作者の見解のようだ。
 
 設楽選手の作戦は結果的には「惨敗」という形に終わったが、一方でアフリカ出身選手の天下で高速化するなか、日本勢が上位に食い込むには前半から飛ばす戦い方も必要であることを確かに提起した。
 まさに「チャレンジ」のレースを展開した設楽選手の気概に、中国のマラソンファンも感慨を覚えたようである。



サーチナニュース 2019-09-18 08:12
http://news.searchina.net/id/1682664?page=1

東京五輪マラソン代表選考会に感動! 
「日本人選手に武士道精神を見た」=中国

 東京五輪マラソン代表選考会「マラソングランドチャンピオンシップ(MGC)」が16日に行われ、2名の五輪代表が決まった。
  中国メディアの今日頭条は16日、このMGCから日本人マラソン選手の武士道精神を見たと感動を伝える記事を掲載した。

 今回のレースは、最後まで目が離せない激戦となった。
 優勝候補とみられていた「4強」の選手ではなく、5、6番手とみられていた中村匠吾選手が優勝を決めたからだ。
 記事の中国人筆者もこのレースに注目していたらしく、3つの「武士道精神」を見たと興奮を語っている。

★:その1つ目は、「勇猛さ」だ。
 日本歴代2位の記録を持つ設楽悠太選手は、「前半から突っ込んでいく」との強気な言葉通り序盤から果敢な攻めを見せてくれた。
 37キロ過ぎで2位集団にのみ込まれ、まさかの14位に終わったものの、筆者はよほど感動したらしく「有言実行の、男の中の男」と絶賛した。

★:2つ目は、「我慢強さ」だ。
 筆者は、「真のダークホース」となった中村選手について、恐らく多くの人と同じで「最初はあまり注目していなかった」という。
 しかし、最後のラストスパートをかけたところを見た時、自分の力を最後まで見せずに、最後に出してきた我慢強さを感じたと感動を伝えている。

★:3つ目は、「悔しさ」を感じたそうだ。
 設楽選手と大迫傑選手が内定基準の2位以内に届かなかったのはもちろん残念だが、それ以上にほかの選手らの悔しさを感じたという。
 この2名は実力があるので東京五輪代表の3枠目に入る可能性が十分にあるが、それ以外の選手は東京五輪の戸は閉ざされ、4年後のチャンスもあるかどうかは分からないため、悔しかっただろうとしている。

 筆者はほかにも、神野大地選手や井上大仁選手らをはじめとしたすべての選手に敬意を表し、素晴らしいレースを見せてくれたことに感謝を示している。
 記事に対して、「日本のマラソンはすごい。中国ではいつになったらマラソンがあちこちで花開くのだろうか」と感心する人や、設楽選手の健闘を称え、「勇気を持って言えて、勇気を持って行動できる人は尊敬する」と称賛する人もいた。
 初の試みとなったMGCは非常に分かりやすい選考方法で大成功に終わっただけでなく、海を越えて多くの中国人に感動と勇気を与えたようだ。

9/17(火) 20:01配信Number Web 生島淳
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190917-00840761-number-spo

あの独立自尊の大迫傑が振り返った
MGC41.8km地点、衝撃の場面


●大迫傑が前ではなく、「自分を追うランナー」の位置を確かめている。彼の性格を考えればどれほど追い詰められていたかがわかる。 photograph by Yoichiro Funakoshi/JMPA

 勇敢と、無謀は紙一重である。
 設楽悠太の飛び出しは、勇敢だったのか。
 それとも、無謀だったのか。
 結果だけを見れば、無謀だったということにはなる。

 それでも勝負が優先されるレースで、自らのレーススタイルにこだわった設楽の勇気は讃えたい。
 設楽の大逃げが成功する可能性もあったからだ。
 いいレースには、あれやこれやと様々な「仮定」というか、「妄想」が成り立つ。
 もう少し、気温が低かったら(翌日の東京は雨が降り、涼しかった)。
 1キロ3分ペースではなく、3分10秒ペースでも、十分な飛び出しだったのではないか? 
 レースを振り返って設楽は、「25km過ぎから、もうキツくなってしまって」と話したが、失速するタイミングがもう少し遅かったら、集団を形成する選手たちはより早く仕掛けていただろうし、違った結果が待っていたかもしれない。

■自由奔放さこそが設楽の強さだった

 敗れたとはいえ、設楽の及ぼした「エフェクト」は甚大なものがあった。
 レース後、疲労困憊の設楽は飛び出したことに後悔はない、と話した。
 これもまた、彼らしい。
 東洋大時代は言葉数も少なく、インタビュアー泣かせだったが、社会人になってからの設楽の話を聞くのは、いつも楽しかった。
 天真爛漫。マイペース。
 レースのスタート時間に合わせて起床時間を調整することもないし、食事にもこだわらない。
 常識に囚われない自由奔放さがあったればこそ、日本記録の樹立につながったと思う。
 ただし、今回ばかりはそれが裏目に出た。
 自制。
 少しばかり自制することを事前のレースで体得していれば、結果は違ったかもしれない。
 それにしても、学びの場がMGCだったとは……。

■設楽の飛び出しが大迫の焦りを生んだ

 今回のMGCで、「設楽エフェクト」の影響をもっとも受けたのは、設楽と共に横綱とみなされていた大迫傑ではないか。
 3位で内定とはならなかった大迫。
 レース直後の囲み取材では、
 「完全に力負けです。最後には脚が残っていませんでした」
 と潔く負けを認めていたが、余力が残っていない要因までは詳しくは分からなかった。
 しかしレースの翌々日、日本テレビの『スッキリ』に出演し、大迫はレースを次のように振り返った。
 「レース前にコーチとも相談して、当日の気象条件を考えると、ひとりで逃げ切るのはむずかしいだろうと判断しました。
 飛び出したのがひとりだったら、落ちてくる可能性が高いので、追いかけてリスクを取るよりも、見逃そうという選択でした。
 ただし、実際に設楽選手が飛び出して、自分の中で焦りというのがなかったとは言えないです」
 それはレースの進め方に表れていたという。
 「いつもだったら集団の後方で全体を見渡す位置にいるんですが、集団の前の方でレースを進めてしまったんです。
 そのため、それぞれの選手のスパートに対応してしまったので、脚を使ってしまいました」
 いつも、大迫は泰然自若としており、テレビの中継でも集団の後方に待機しているため、その姿を捉えづらい。
 ところがMGCでは大迫の姿がよく映っていたのには、こういう理由があったのだ。

■中村、服部は終始冷静だった

 一方で、中村匠吾、服部勇馬のふたりは、集団の中で終始冷静だったという。
 「彼らふたりはすごく集中していました。
 僕よりもレースが見えてたのかな、と思います」
 横綱としては、すべての状況に対応しなければならない。
 脚を使っていくうち、大迫は仕掛けどころを失っていく。

■独立自尊の大迫が、後ろを振り返った

 「残り2キロになって、あと2キロというよりも、『まだ2キロ』という感じでした」
 実感がこもっている。
 勝ち切るプランは、スプリントに自信を持っていることもあり、「ラスト500、600mくらいでスパートをかければいいかな」と作戦を立てていたという。
 しかし、新国立競技場が真正面に見えるラストの上り坂、中村匠吾は次のブースターを用意していた。
 大迫はついに対応できずに置き去りにされる。
 しかもその直後、41.8km地点で大迫は後ろを振り返っている。
 たまたま、新国立競技場の前で大迫が後ろを振り返ったシーンを、知人が写真に収めていた。
 余裕がない。
 苦しそうに見える。
 独立自尊の大迫が、後ろを振り返ったところに私は衝撃を受けた。
 映像で何度も確認すると、3位の服部を確認したのではなく、4位の大塚祥平の位置を確認しているのである。

■ナイーブな大迫を初めて見た

 2位までに入らなければならないという、プレッシャー。
 2位に入った服部勇馬は、「大迫さんが後ろを振り返ったので、これは行けるんじゃないかと思いました」と元気づけられたと明かした。
 大迫は、服部に勇気を与えてしまっていた。
 ラストの外苑いちょう並木に入ったところ、そしてフィニッシュライン直前でも、もう一度後ろを振り返っている。
 少なくとも、私がナイーブな大迫を見たのは初めてだった。

■大迫「自分を抑えられるかが大切」

 『スッキリ』の話を聞く限り、MGCのレースは大迫の経験値を大きく上げたようだ。
 「タイムを狙うレースとは違った緊張感がありました。
 反省点を挙げるとすれば、最初の20kmです。
 僕が集団の前にいたことで、いろいろ対応してしまったので、『自分を抑えられるか』が大切かな、と」
 来年に向けて、フィジカルとランニングの経済性にも話が及んだ。
 「筋トレをやった結果、動きがダイナミックになってしまい、一歩一歩のダメージが大きくなってしまった気がします。
 中村選手、服部選手のふたりは、省エネの走り方だったので、コーチと相談していきたいと思います」
 この回答、情報番組としてはかなり専門的で思わず笑ってしまった。

■3枠目は8割方大迫傑のものだが……

 さて、3枠目の行方はどうなるのか。
 私は、大迫が十中八九、内定だと思っている。
 彼の持つ2時間5分50秒という記録が、福岡国際、東京、びわ湖毎日で破られる可能性は極めて低い。
 もしも、今年の東京のように気温が下がり、氷雨が降るような状態になったら、それだけで確率は限りなくゼロに近くなる。
 100mのように、気象条件という自分ではコントロールできない要素が入り込んでくるため、現実的には大迫が3枚目の切符を手にしていると見ていい。

 2時間5分49秒を出すポテンシャルを持っている選手は、日本にふたりだけだ。
 ひとりは、天衣無縫の設楽悠太。
 そしてもうひとりは、大迫傑本人である。
 個人的には、MGCで大きな学びを得た大迫が、東京オリンピックで走るのを見てみたい。




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